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心に残った音楽♪

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詩集『巴里の憂鬱』 ボードレール著、三好達治訳

Pari no Yuuutsu_Baudelaire 高校生の頃にランボーの詩集『地獄の季節』を読んだことで、僕にとっての文学が始まりました。それまでも読書好きではあって、有名な文学作品の幾つかぐらいは読んでましたし、国語は勉強をしなくても常に90点以上だったのに、『地獄の季節』はその程度の国語力では到底かなわないハイレベル。「うわあ、すげえ…」と痺れはしたものの、それはせいぜい修辞法の見事さに対しての感動ぐらいなもので、何を言ってるのかはよく分からず。その後、何度も何度も読み直すうちにだんだん意味が分かってきて、気がつくと常にランボーの詩集を持ち歩くほどになりました。もし音楽よりもランボーとの出会いが先だったら、僕は音楽をやってなかったかも。

 ボードレールはサンボリスム(象徴派)の開祖だなんて言われていて、サンボリスムなんて僕にはどうでも良かったんですがが、ランボーがサンボリスムの詩人なんて言われていたもので、興味を持ってボードレールの詩集に手を出しました。それがこの詩集で、僕が読んだのは三好達治訳です。でも今から読むなら、たぶんもう少し現代の人の訳の方がグッとくるような気がします。ランボーの詩がそうだったんですが、訳詩は翻訳でぜんぜん変わっちゃうんですよね。

 『巴里の憂鬱』は散文詩です。46歳で死んだボードレールはこの詩集を完成させることが出来ないまま死んだ…はずですが、なにせ昔に読みかじった事なので記憶が怪しい (^^;)>。ランボーの代表的な詩集『地獄の季節』と『イルミナシオン』はどちらも散文詩ですが、散文詩の歴史はベルトラン『夜のガスパール』に始まり、ボードレール、ランボーと進化していきます。その次にマラルメやヴァレリーが続くんですが、ランボーが一番かな。『地獄の季節』を読む前まで、僕は詩というのは短くて韻律があって…みたいなものだと思っていたのですが、ランボーを読んでから散文詩の方がいいと思ったんですよね。何故なら、言いたいことを言うためになにも韻律という制約を設ける必要を感じなかったから。しかも、人間の重要な問題を言葉で表現するのに、何も小説のような物語を使うようなまどろっこしい事も必要ないと思うから、「散文」であり「詩」である事は、最高の言語表現ではないかと思ったのでした。そして、『巴里の憂鬱』には、たしかにそういう見事な表現があったのでした。

一切の人々に不平を抱き、私自らにも不満を感じ、いま、夜半の孤独と寂寞の中に、私は私自らを回復し、暫く矜持の中に溺れたいと願う。私が愛した人々の魂よ、私が讃美した人々の魂よ、私を強くせよ (夜半の一時に)

お前は、空の深さをお前の清澄な美しい魂に映しながら、それらを音もなく、悠久無限なる海の方へと連れて行く。―そうして、波浪に疲れ、東洋の産物を満載して、それらが再び故郷の港に帰ってくる時にも、それは即ち、無限の方から、お前に向かって再び帰ってくる、私の豊富にされた思想に外ならない。 (旅への誘い)

 気の合う友人とすら共有できない、自分自身が感じている何かがそのまま言葉にされている…そう思えてならない言葉がこの詩集に書かれていた事は、ランボーの『地獄の季節』や『イルミナシオン』と同じでした。これは人間にとって何が問題となっているかが見えるところまで来た人にしか書けない詩だ、言語化の難しいこの問題を言葉にした俺と同類の人間がいる…というこの感慨。感動しました。サンボリスムとか散文詩というスタイルは何かを言い当てるために必要だったスタイルでしかなくて、そのスタイルを使って何を言い当てるかが重要ですよね。だから、「ボードレールとはサンボリスムのルーツで…」みたいな文芸評論は形式のことを言うばかりで、ボードレールの言語表象なり象徴的な表現が「何」を言い当てようとしたのかにまったく触れていない、と思ったものでした。
 言い当てられている「それ」というのは、実存の問題の事で、私の意味とか、その生き方の正義がどこにあるかとか、そこに達しえない苦しみとか、例えばそういうものの事。ボードレールやランボーの詩に勇気づけられるのは、その問題に触れているのはあなただけではないと思わせてくれることで、しかもそれを日本文学みたいに「あはれ」を表現するところに止まらずに「私」の側の勝利の可能性を模索し暗示してくれている事。「夜半の一時」を例にとれば、「一切の人々に不平を抱」くのは、一般にそうした実存の問題はまだ共有されるほどにまで表面化していないからで、「私自らにも不満を感じ」るのは、私はそこに気づいていながらも出口が分かっていないから、みたいな。こういう人間がまだ解決できていない実存の問題を扱っているからこその詩であって、その詩がサンボリックの修辞法を使っているかどうかなんて本質じゃないと思うんですよね。象徴するところのものが何であっても素晴らしいものであるはずはないんですから。

 でも『巴里の憂鬱』が、「夜半の一時に」や「旅への誘い」みたいな詩ばかりかというと、そうではありませんでした。道化がどうしたとか、自殺した少年がどうとか、ちょっとした短編小説を詩的表現であらわしたようなものが多いのですよね。だから、これはまだランボーの『地獄の季節』や『イルミナシオン』という完成品を生む前に生まれた佳作だ、と感じました。それでも、大量に読んできたたくさんの詩集の中で、最も僕が読みたいところのものを扱っている数少ない一冊だと今でも思っています。


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書籍『ブレイク詩集』 ウィリアム・ブレイク著、土居光和訳 平凡社

Blake Sishuu_Heibonsha ひとつ前の日記でブレイクの絵画の本の感想を書きましたが、ブレイクは詩人としての方が有名かも。この本は、ブレイクの詩集のうち、「無心の歌」「経験の歌」「天国と地獄との結婚」が収録されていました。どれもキリスト教的世界観が強い詩なので、ブレイクさん初体験の方は、絵画から入った方が受け入れやすいかも…って、僕がそうだったというだけですね(^^;)>。

 言葉そのものは、ランボーやマラルメのように難解なわけではなく、むしろ分かりやすいです。そして、その分かりやすい言葉で語られている事の真意は、ど直球で核心に迫ってるんじゃないかと感じました。人間にとって一番重要なものってなんなの、というものを真正面から問うて、かつブレイクさん自身の答えを書いてるのが、ブレイクさんの詩なんじゃないかと。全部で50篇ほどの詩からなる「無心の歌」と「経験の歌」は、たぶん別の詩集として読んではいけなくて、対になっているのだと思います。「無心の歌」は感じたものを言っていて、「経験の歌」は考えた結果にたどり着くものを言っているのでしょう。

そして、理解にはキリスト教への理解が必要と思いました。いや、キリスト教どころか、カバラなんかの霊的体験を扱った一神教世界全体への理解がないと、本当には理解できないのかも。分かりやすい例でいえば、「仔羊よ、誰がお前を創ったの」みたいな一節があるんですが、言葉通りの意味は分かりますが、実際に言おうとしている事はぜんぜん違う意味ですよね。で、もし仮にキリスト教での「仔羊」が象徴しているものを知らなかった場合、これはもう理解不能、みたいな。まあ、これは単純な例なのですが。
で、解題のヒントはヴィジョンなんじゃないかと。モーゼにしてもイエスにしてもムハンマドにしても、神や天使と出会って会話する霊的体験があるじゃないですか。今の日本だと、そんな事いったら「心療内科へ行け!」ってなもんでしょうが(゚∀゚*)、一神教世界ではそこってものすごく重要ですよね。ましてグノーシスやカバラなんかの密教系になったら、そこは重要どころか核心なのかも。この「ヴィジョン」というものを理解できてないと、ブレイクの詩は理解不能と思いました。対になっている「無心の歌」と「経験の歌」は、恐らく前者がその手の宗教体験を指摘していて、後者が科学時代に突入していた19世紀的な世界観から曲がってしまった宗教観を示したものと思います。で、両者が同時に理解出来た瞬間に体験できるのがヴィジョン。それを詩というよりも、散文か寓話のような形で指摘した詩集が「天国と地獄との結婚」なんじゃないかと。その終盤の一節を抜き出してみます。

悪魔は答えていった。「(中略)イエスは完全な徳をそなえた人であった。そして戒律によってではなく、衝動によって行為したのだ」と。悪魔がかく言った時、私は見た、天使が両手をさしのべて火焔を抱いたのを、そして、燃えつくされ、エライヂャーとして復活したのを。

ブレイクって、もしかすると本当にヴィジョン体験があった人かも知れなくて、それが何であるかを表現しようとした人だったのかも。そこを指摘しているという意味で、とても宗教的/哲学的な詩集と思いました。あ、そうそう、ちなみに、エライヂャーというのは、火の車に乗って昇天したと言われる預言者だそうです。

営業マンは営業だけ、建設業の人は建設だけみたいに、ひとつの専門だけに従事することの多い今の世界と違って、昔の西洋のアーティストは色々な事をやるのが珍しくありませんでした。ダ・ヴィンチもヴィヴァルディも、中世以降の西洋の文化人はみんな専門家ではなくリベラルアーツを目指していたように思います。ブレイクもそうで、銅版画家や詩人というだけの専門家ではなく、人間とか世界を全部ひっくるめて扱っていた人なんじゃないかと。19世紀の西ヨーロッパの思潮の上にある詩なので、今の日本に生きている僕には分かりにくい所もありましたが、それでもブレイクさんが伝えようとしている事は、読んで楽しかったとかつまらなかったとか、そういうレベルのものではなく、人間にとって普遍のテーマに切り込んだものなんじゃないか。若い頃に読んだ時はファンタジーかと思いましたが、宗教学やなんかをちょっと通過した後に読むと見え方が全然変わって、なんとも深い詩集でした(^^)。


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書籍『ウィリアム・ブレイクの芸術』 アンソニー・ブラント著、岡崎康一訳

WilliamBrake no Geijyutu 以前に映画「レッド・ドラゴン」の感想を書いた事がありましたが、あの絵を描いたのがイギリスの詩人/画家/銅版画家のウィリアム・ブレイクです。ブレイクはエキセントリックとも取れそうな絵をかく人で、宗教的な内容の絵が多いです。

 ブレイクの絵画って、「レッド・ドラゴン」に限らず、ニュートンの絵にしても、ダンテの神曲の挿絵にしても、すごく意味ありげ。この本は、筆者なりにその意味ありげな絵の解題をしているのですが、「なるほど」と思わされるものがあって、ブレイクの絵の意味を考える大きなヒントになりました。ただしその解題はなかなか高度で、宗教とか哲学とか象徴という説明をされると眉唾に感じてしまう人には、この解題は辛いかも。でも宗教とか神秘とかいう所に変な嫌悪感を持たずに読めば、本当に素晴らしいと思います。

WillamBlake_Newton.jpg で、その解題の核心部分をまとめておくと…この本では、ブレイクの絵画の背景にあるものを「聖なるもの」とし、その説明に結構なページを費やしてました。ここはちょっと僕では説明しきれないんですが、絵画と照らし合わせてみながらだと分かりやすかったです。簡単にいうと、一撃ですべてを伝えてしまうもの、みたいな。何言っているか分からないかも知れませんが、ヴィジョンの体験ってそういうものらしいじゃないですか。この世界の事も、自分の事も、命についても、一瞬ですべてわかってしまうような体験、みたいな。で、ブレイクの絵を見て「ああ、これだ…」みたいな体験があるという事もあれば、その体験自体を表現したものもある、みたいな。レッド・ドラゴンでいえば、覚醒する瞬間の筋骨隆々とした半神半獣のドラゴンを見て、たとえば生命にまつわる聖なるものをすべて理解できてしまったような体験をする…やっぱり僕では上手く説明できなかった(^^;)。。まあでも、素晴らしい絵画や音楽の背景にあるものって、常に同じだよな、芸術ってこうありたいよな…と思わされました。

実際の図版も60点を超えていて、ちょっとしたブレイクの画集としても楽しめます…残念ながらモノクロですが(^^;)。ブレイクの絵画に関する本は何冊か読みましたが、これは分かりやすい上に的を射ていると思えた素晴らしい本でした。ブレイクの絵に魅せられた事のある方は、ぜひ一読を!


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書籍『パウル・ツェラン詩集』 飯吉光夫訳 小沢書店版

PaulZeranSishuu_OzawaShoten.jpg 翻訳者も書籍タイトルもまったく同じですが、思潮社と小沢書店の『パウル・ツェラン詩集』は、かぶってるところもあるものの、編集方針が違うものでした。小沢書店版の特徴は、ツェランの初期詩集に特化している事と、詩だけでなくエッセイ、それに他の人が書いたツェラン論も収録されている事です。

 若い頃は、ツェラン独特のレトリックやメタファーに痺れていた僕ですが、正直言って何を言っているのかはよく分かっていなかった気がします。でも、ツェランがナチス政権下のドイツに生きたユダヤ系ルーマニア人で、両親が強制収容所に送られたまま消息不明になった事を知ったうえで読むと、いったいこの詩が何のメタファーなのかが分かる気がしました。そのうえで、良いと思った詩をあげると、初期詩篇では「アルテミスの矢」「翼の音」。詩集『閾から閾へ Von Schwelle zu Schwelle』からは「ここ」「沈黙からの証しだて」。散文では「山中の対話」が、心に来るものがありました。ちょっと抜粋すると…

鳩はそれもアヴァルンにたゆたっている。
そのため、あなたの腰の上方の、半ば心、半ば鎧である一羽の鳥は闇にとざされる。
(中略)わたしはそれでも鳩が、白い鳩が、やってくるのを見る、アヴァルンから。 (翼の音)

ここ―それは、わたしがそれに乗って砂の河を遡ってきたあの船のこと、
―その船は舫われたまま、あなたが撒いた眠りの中に浮かんでいる。 (ここ)

ぼくは、いとこよ、その蝋燭を愛していたのではない、ぼくが愛していたのは、その蝋燭が《燃えつきること》だった。そしてそれからというもの、わかってくれるだろう、ぼくは何ものをも愛していない。 (山中の対話)


 こんな感じで、厭世観を感じるというか、近い時代で言えばドイツというより、サルトルやカミュのようなフランス系の実存主義が持ている虚無感みたいな。「ここ」なんて、私は死んだ人間で、こことは彼岸の事なのでしょうしね。

 他の人が書いたツェラン論。ブランショなんかが書いていましたが、各論みたいでこれはあんまり参考になりませんでした。むしろ、訳者の飯吉さんによる解説が見事で、そっちに感銘を受けてしまいました。詩や散文や外国文学って、コンテキストもものすごく大事なので、解説って大事ですよね(^^)。

 そんなわけで、さすが詩人だけあってレトリックやメタファーの使い方はすげえな、と思ったんですが、ちょっと厭世的で、その重さがきつかったです。でも、両親がそんな死に方をして、自分もすれすれのところを生きてきたんだから、そうなるなという方が難しいのかも知れません。


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書籍『パウル・ツェラン詩集』 飯吉光夫訳 思潮社版

PaulZeranSishuu_Sichousha.jpg 1920年に生まれ、1970年に入水自殺したユダヤ系ドイツ人の詩人パウル・ツェランの詩集です。もともとはルーマニアに住んでいたそうですが、これは時代的にナチの迫害を逃れるためだったのかも。実際、ツェランの両親はナチのユダヤ人強制収容所に送り込まれて消息を絶っています。処女詩集はウィーンから発行され、1950年以降はパリに住んでいたそうですが、国はあまり関係なく、第2次世界大戦を挟んだ20世紀を生きたユダヤ系ドイツ人だったところが重要なのだと思います。僕の偏見とは思えないぐらいに、2次大戦時のヨーロッパのユダヤ人の悲劇が関係したとしか思えない詩が多いのです。

 飯吉光夫さん訳で『パウル・ツェラン詩集』というタイトルの本は、この思潮社版のほかに小沢書店から出版されたものもあり、両者は同じ内容ではありません。比較すると、思潮社版はツェランの創作を彼の生涯からまんべんなくセレクトしているかわりにそれぞれの詩集からの抜粋。小沢書店版は創作初期のものに集中しているかわりに抜粋の比率が少なく、また詩以外にもエッセイ、また批評家の書いたツェラン論なども収録されています。
 というわけで、小沢書店版と重複する初期の詩は飛ばし、小沢書店版未収録の後期詩編の感想なんぞを書いてみようかと。

 今回読んで面白いと思った詩は、詩集『息のめぐらし』収録の「絲の太陽たち」、詩集『絲の太陽たち』収録の「刻々」と「白く」、『迫る光』収録の「かつて」この4つでした。一部分を抜粋すると…

まだ歌える歌がある、人間のかなたに。 (絲の太陽たち)

あかるさはすみずみまで眠っていない。
おまえはのがれ成る事なくいたるところで、心をあつめよ、
立て。 (刻々)

掟らが列にくわわる、行進する、内へ。 (白く)

光が生じた、救いが。 (かつて)


 詩なのである程度の抽象化は行われてますが、でも具体的なイメージがあるのではないかと思えました。「まだ歌える歌がある」とは、この世界でまだ歌える歌があるという事であって、裏返して言えば死を意識した上での言葉に感じます。「刻々」も、何が刻々とであるかというと、刻々って時間の事ですし、まだ光は完全には失われておらず(隅々まで眠っていない)、でも刻々と迫ってくるその時からは逃れる事は出来ないので、「立て」と自分を鼓舞しているように思えます。
 「白く」で、列にくわわって行進するイメージって、強制収容所に連行される人々のイメージと、一神教世界で死のあちら側に連れて行かれる死者の列のイメージのふたつが重ねられているのではないかと。そして、そのどれもが、2次大戦時のユダヤ人の体験と無縁ではないと思えました。

 ところで、この4つの詩が良いと思えたのは、そうした体験の一般化が、あらゆる人にとって普遍的なところまで進んでいるから、読んでいる僕にとっても切実なものとして言葉が刺さったからと思うのです。ところがツェランの詩って、ここまで抽象化が進んだ「詩として見事なもの」というのが少ない印象でした。だから、詩として見事なのではなく、あまりに強烈だった戦争体験を拭い去れない精神疾病患者が書いた混乱した言葉の断片みたいに思えてしまったり。

 20世紀って詩に限らず、哲学でも美術でも音楽でも、ふたつの大戦がテーマになる事が多いです。個人どころか人類自体が滅亡しかねない状態になった戦争を前提にするのは自然な事かとは思うんですが、でもその分野が暗に持っている最大のテーマから逸れた行為にも感じてしまうんです。だって、例えば音楽を例にとると、音が組み合わされて、それが人間移動受け取られるかというのが音楽のベースにあるものじゃないですか。それと戦争を繋ぎ合わせるのは、不可能じゃないけど根本にあるものからは遠ざかると思うんですよね。詩や美術も同じで、詩が戦争をテーマにしても別にいいと思うんですが、本気で戦争に取り組みたいんだったら詩や音楽をやってないで倫理や社会学や政治に踏み込まないと嘘のような気がしてしまうんです。また、詩や音楽というものから見ても、その主題からちょっと外れてしまっているというか。
 というわけで、この詩集を読んだ僕の感想は、これは詩として素晴らしいのではなく、2次大戦を体験したユダヤ人のリアルな肉声としての価値があるものに感じました。それだって重要なものと思いますが、普遍的なものを言葉で射抜いた詩ではなく、あくまで戦争詩に特化された言葉、みたいな。


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プロフィール

Bach Bach

Author:Bach Bach
神戸住まい、奥さんとネコと暮らす音楽好きです。音大は卒業したのですが、成績はトホホ状態でした(*゚ー゚)

ずっとつきあってきたCDやビデオの備忘録をつけようと思い、ブログをはじめてみました。趣味で書いている程度ですが、いい音楽、いい映画、いい本などを探している方の参考にでもなれば、大変嬉しく思います(ノ^-^)ノ

最近気になってるCDとか本とか映画とか
intoxicateに載っていた1枚。「Vyacheslav Artyomov」、ロシアの作曲家は名前が読めなくってムズカシイ。。「ヴャチェスラーフ・アルチョーモフ」と読むらしいです。伝説の「フレンニコフの7人」のひとりとの事ですが、それって何かすら僕は知らず(^^;)。作風的には初期は新古典的、後に民族的な様式、十二音技法や、複調性、ミニマルなんかも用いたみたい。ロシアの前衛は強烈なものが多いので、聴いてみたいです。アマゾンで買おうと思ったらダウンロード版しかなかった(;_;)。 オスマン時代から現代までのトルコ音楽のガイド本みたいです。おおお~、これは絶対に読もう!!
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