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心に残った音楽♪

おすすめCDの紹介のほか、本や映画の感想などを (*^ー゜)v

 

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映画『明日に向かって撃て!』 ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード主演

Asu ni mukatte ute 映画より先に音楽から入った『明日に向かって撃て!』でしたが、後追いで観た映画もなかなかで、束の間の幸福と対照的な悲劇的なラストシーンは、若い頃の僕の心に響くものがありました。ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードは大名作『スティング』での共演を観て感激してましたし、特にポール・ニューマンは中学生の頃に『ハスラー2』を観て以来のあこがれの男性像。ガキくさい女みたいな顔したひよっこアイドルなんかじゃなくて、屈強で苦み走った中年の男のシブさに憧れた!そんな僕だったので、この映画を観るのは時間の問題でした(^^)。

 話は19世紀末の合衆国。西部開拓時代の終焉と第1次大戦の間ぐらいで、実在したアメリカの銀行強盗2人組が主人公。ブッチ・キャシディ(ポール・ニューマン)は野心があり頭が切れ、サンダンス・キッド(ロバート・レッドフォード)は速撃ちの名手。ふたりは列車強盗などで大金をせしめ、ブッチは女教師エッタと楽しいひと時を過ごします。しかしふたりは追われる身になり、ボリビアに逃亡。その後、堅気になる道もありましたがそちらには進まず、最後にはオーストラリアで新しい人生を切り開く事を夢見ながら、自分たちを包囲した警官隊たちに…

 結末はいちおう伏せましたが、アメリカン・ニューシネマときいたら、どういう結末化は書かなくても分かってしまいますね(^^;)>。ふたりとも馬を駆り、速撃ちやカードで名を馳せ、強盗であふれるほど金を儲け…若いころの男だったらみんな憧れそうな不良のカリスマ。今だったらバイクに乗ってビリヤードやちょっと頭の切れる犯罪やって儲けてホテル暮らしで…みたいな感じでしょうか。でも、そんな反社で無頼な「カッコいい」はいつまでも通じません。それでもその「カッコいい」を貫こうとするも…
 この「カッコいい」が、とても重要な事を言っている気がしました。銀行強盗やって、なにがカッコいいのか。これは映画『野獣死すべし』もそうですが、成功して巨万の富を得る事もそうでしょうが、普通なら成功するわけがないような大それたことをやってしまう事、それを成功させる卓越した頭脳なり腕っぷし、それを「カッコいい」と思うのでしょう。それなら別に銀行強盗や犯罪である必要もない…かというと、そうじゃない気がします。普通に生きてたら多少の差があるとはいえ型に嵌まった未来しか見えません。いい会社に入る、農民として生きて死ぬ、うまく行ったとしてほどほどの家を建てて子供を持って…それでどうなる?つまり、常識を覆して、既定路線を歩かされることを拒否したいんですよね、きっと。あきらめが背中合わせの「普通」ではない何かが人生に欲しい…こんな感じが、いわゆる中二病的な夢というやつじゃないでしょうか(^^)。
 ところが、そんなものが簡単に成功するはずもありません。簡単に手に入るはずもないものだから追い求めているという構造的な矛盾もありますしね。で、どうなるかというと普通は普通のさやに収まっていくわけですが、それが嫌だからこういう挑戦をしているのであって、それを通そうとするところに夢をかけているわけではないかと。

 これって、映画の場合はどうでしょう。映画なら成功させる事は造作ないですが、逆にいうと「映画だからな」になってしまうんじゃないかと。では、現実は?ありそうな現実的な結末がこの映画なんじゃないかと。この映画の良い所は、実在した人物が原案になっている所で、ここにアメリカン・ドリーム的な超越願望とロスト・ジェネレーション的な虚無が重なっています。たとえ最後は悲劇であっても、夢のない日常を受け入れるわけにはいかない…ニューシネマの本質はここにあると僕は思ってるんですが、ポール・ニューマンやロバート・レッドフォードのカッコよさが相まって、「超越できるんじゃないか」と思えるし、また結末がいっそう劇的にもなって(ラストの演出はいろいろ言われてますが、個人的には好き…ラストでほのぼのとした音楽を流すのは、この世もまた束の間の夢まぼろしという事のように思えて良い演出だと思っています)、素晴らしい映画だと思いました。
Asu ni mukatte ute_bicycle そうそう、そういう物語なだけに、途中に挿入される彼女との平凡で幸せなデートのシーンが、すごく映えました。彼女と一緒に自転車に乗って、菜の花が咲く青空の下を走って、太陽に照らされて大地が黄金に輝いて、笑い合いながら一緒に林檎をかじって…忘れられない名シーンです。結局、大金を手に入れても、壮大な夢を思い描く事が出来ても、人生の最後に思い出すのはそういう小さな幸福なのかも…そういう事を思わされました。また、ボリビアへ逃亡の際に、その自転車の車輪が空転するシーンをアップにしたのは実に象徴的。空回りという事でしょう。

 『タクシードライバー』、『ガルシアの首』、『バニシング・ポイント』などとともに、アメリカン・ニューシネマの傑作と言われている映画ですが、僕的にはこの映画がアメリカン・ニューシネマ最高傑作かな。あ、『チャイナタウン』がニューシネマに入るならそっちですけど、いずれにしても、男なら死ぬまでに一度は見ておきたい映画じゃないかと。どうやって生きればいいかを思い悩んだ若い頃にこの映画を観る事が出来て、幸運でした。青春時代って、映画や本や音楽に触れないとダメですね、そうしないと人生を考えるようになれなません。


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詩集『悪の華』 ボオドレール著、鈴木信太郎訳

Aku no Hana_Baudelaire_SuzukiSintaro こちらは岩波文庫版『悪の華』、鈴木信太郎さん訳です。新潮文庫の堀口大學訳がちょっと古めかしい訳文で分かりづらかったもんで、別の訳を買ってみた大学生の頃の僕でした。結果として、こっちも旧仮名づかいだったんですけどね(^^;)。同じ詩集を訳違いで買ったわけですが、詩の翻訳は厳密には不可能と思うので、訳違いを読むのも選択肢のひとつと思うのです。

 明確に「こっちの訳が勝ち!」と言えません、詩による。。例えば、最初の詩「祝祷」の一節を例にとると、堀口大學に一票。

(堀口大學訳)
われ知れり、苦悩こそ唯一の高貴
人界も地獄も、このものは傷け得ずと、
またわれに値する神秘なる冠を編まんには
あらゆる時代、あらゆる国を動員すべきを。


(鈴木信太郎訳)
知ってゐる、苦悩こそは唯一の高貴なもの、
地上も地獄も永久に損ふことはないであらうと、
また、詩人の神秘の王冠を編まうとすれば
あらゆる時間とあらゆる世界に貢ぎ課さねばならないと。


 ところが、最後の方の「芸術家の死」では鈴木さん訳の方が良い気がしてしまいました。

(堀口大學訳)
不出来なカリカチュールよ、何度僕は、狂ほしい感興の
鈴を振り立てながら、そなたの下卑た額に接吻したらよいのか?


(鈴木信太郎訳)
そもそも幾度、俺の鈴を鳴らさなければならないのか、
陰鬱な戯画よ、幾度卑しいお前の額に接吻せねばならぬのか。


 要するに、意味が分かりやすい事と、詩の持つ音楽的なリズム感を感じる事、このあたりで僕は訳詩の良し悪しを判断している気がしました。だいたい、原文を読んでないからどれぐらい原詩に近い内容を持っているかは判断できませんしね(^^)。。仮に読んでいたとしても、詩だから逐語訳が正しいとも思えませんし。

 ランボーの詩であれば小林秀雄役という超名訳を持っているのですが、ボードレールは『悪の華』にしても『巴里の憂鬱』にしても「おお、これはいい!これだけあればあとはいいや」という訳に出会う前に通り過ぎてしまいました。まあ、移動時間に読もうと思って本屋で目に留まった文庫本を買っただけでしたからね。。『悪の華』なんて近代詩の代表格だから、探せばきっといい現代語訳も出てるんでしょうね。惜しいのは人生の短さ、他の訳も読んでみたいけど、僕には他の訳を読んでいる暇がなさそう。訳詩集を読むときは、安直にパッと目についた一冊を取るのではなく、いくつかの訳を見比べて厳選してから読むべきだったなあ…おっと、『悪の華』にまったく触れずに終わってしまいました。まあそれは堀口訳の方に書いたからいいか。。もし未来の自分に伝えるとしたら、「読み直すなら堀口大學訳の方が7:3ぐらいの差で良いかも」と言う…かな?


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詩集『悪の華』 ボードレール著、堀口大學訳

Aku no Hana_Baudelaire_HoriguchiDaigaku 「巴里の憂鬱」は散文ぎみの詩集でしたが、「悪の華」はまさに詩集。というわけで、ボードレール唯一の詩集「悪の華」です!僕はランボーでフランス詩に大ハマりして、さかのぼる形でこの詩集に辿り着きました。「悪の華」というタイトルも若い頃にロック魂をくすぐられて好きでしたしね( ̄ー ̄)。

 「巴里の憂鬱」の感想にもちょっと書きましたが、僕にはボードレールやランボーやマラルメが「サンボリスト(象徴派)」と言われる意味がよく分かってません。でも、象徴派と言われている詩人が書く詩には好きなものが多いです。少なくともロマン派詩や叙事詩よりずっと好き。その特徴が何かと言われると、あまり描写的ではなくて、私自身に関わる抽象化された問題(たとえば死とか)を言葉で表現している事かも。たとえば「悪の華」収録の詩でいえば、「憂鬱と理想」の章の超有名な詩77番「憂鬱」の一節などがそうです。

 われは、雨国の王者と、似たり

 で、時としてその言葉が象徴を用いるから「サンボリスム」なのかな、なんて思ったりして。象徴という事は何かの具象を使ってそれそのものでない何かを語るわけですが、その例として、「秋の歌」などでは…

 誰が為の棺ぞ?きのふ夏なりき、さるを今し秋!
 この神秘めく物音は、何やらん、出発のごとくひびく。


 みたいな。でも僕にとって重要なのは、そうした象徴の使い方という詩的技巧ではなく、それで言い当てているものに共感を覚えるのですよね。ランボーほどではないけど、ボードレールの視点もやっぱり凄く好きです。だって、「俺はまるで雨ばかり降る国の王のようだ」って、問題が宇宙でも神話でもなく、「私」なり「人間がどういうわけか抱えている苦悩」だったり「科学なり人文なりが進むにしたがっていつの間にか分からなくなってしまった人間にとっての正しい道」だったりするわけで、それってもろに現代的な問題じゃないですか。だから好きです。それを「誰のための棺だ」とか「雨ばかり降る国の王」と表現するそのセンスがカッコイイ!

 というわけで、ランボーの「地獄の季節」や「イルミナシオン」ほどではないにせよ、「悪の華」は僕が好きな詩集のひとつです。ちょっとタイトルがガキくさいけど(^^;)、でもこういう刺激的なタイトルじゃなかったら若い頃に手に取ってなかった気もするし、悩める青年時代に読むことが出来て良かった詩だと思います。これも実存主義の苦悩の中にある文学群のひとつなんでしょうね。


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詩集『巴里の憂鬱』 ボードレール著、三好達治訳

Pari no Yuuutsu_Baudelaire 高校生の頃にランボーの詩集『地獄の季節』を読んだことで、僕にとっての文学が始まりました。それまでも読書好きではあって、有名な文学作品の幾つかぐらいは読んでましたし、国語は勉強をしなくても常に90点以上だったのに、『地獄の季節』はその程度の国語力では到底かなわないハイレベル。「うわあ、すげえ…」と痺れはしたものの、それはせいぜい修辞法の見事さに対しての感動ぐらいなもので、何を言ってるのかはよく分からず。その後、何度も何度も読み直すうちにだんだん意味が分かってきて、気がつくと常にランボーの詩集を持ち歩くほどになりました。もし音楽よりもランボーとの出会いが先だったら、僕は音楽をやってなかったかも。

 ボードレールはサンボリスム(象徴派)の開祖だなんて言われていて、サンボリスムなんて僕にはどうでも良かったんですがが、ランボーがサンボリスムの詩人なんて言われていたもので、興味を持ってボードレールの詩集に手を出しました。それがこの詩集で、僕が読んだのは三好達治訳です。でも今から読むなら、たぶんもう少し現代の人の訳の方がグッとくるような気がします。ランボーの詩がそうだったんですが、訳詩は翻訳でぜんぜん変わっちゃうんですよね。

 『巴里の憂鬱』は散文詩です。46歳で死んだボードレールはこの詩集を完成させることが出来ないまま死んだ…はずですが、なにせ昔に読みかじった事なので記憶が怪しい (^^;)>。ランボーの代表的な詩集『地獄の季節』と『イルミナシオン』はどちらも散文詩ですが、散文詩の歴史はベルトラン『夜のガスパール』に始まり、ボードレール、ランボーと進化していきます。その次にマラルメやヴァレリーが続くんですが、ランボーが一番かな。『地獄の季節』を読む前まで、僕は詩というのは短くて韻律があって…みたいなものだと思っていたのですが、ランボーを読んでから散文詩の方がいいと思ったんですよね。何故なら、言いたいことを言うためになにも韻律という制約を設ける必要を感じなかったから。しかも、人間の重要な問題を言葉で表現するのに、何も小説のような物語を使うようなまどろっこしい事も必要ないと思うから、「散文」であり「詩」である事は、最高の言語表現ではないかと思ったのでした。そして、『巴里の憂鬱』には、たしかにそういう見事な表現があったのでした。

一切の人々に不平を抱き、私自らにも不満を感じ、いま、夜半の孤独と寂寞の中に、私は私自らを回復し、暫く矜持の中に溺れたいと願う。私が愛した人々の魂よ、私が讃美した人々の魂よ、私を強くせよ (夜半の一時に)

お前は、空の深さをお前の清澄な美しい魂に映しながら、それらを音もなく、悠久無限なる海の方へと連れて行く。―そうして、波浪に疲れ、東洋の産物を満載して、それらが再び故郷の港に帰ってくる時にも、それは即ち、無限の方から、お前に向かって再び帰ってくる、私の豊富にされた思想に外ならない。 (旅への誘い)

 気の合う友人とすら共有できない、自分自身が感じている何かがそのまま言葉にされている…そう思えてならない言葉がこの詩集に書かれていた事は、ランボーの『地獄の季節』や『イルミナシオン』と同じでした。これは人間にとって何が問題となっているかが見えるところまで来た人にしか書けない詩だ、言語化の難しいこの問題を言葉にした俺と同類の人間がいる…というこの感慨。感動しました。サンボリスムとか散文詩というスタイルは何かを言い当てるために必要だったスタイルでしかなくて、そのスタイルを使って何を言い当てるかが重要ですよね。だから、「ボードレールとはサンボリスムのルーツで…」みたいな文芸評論は形式のことを言うばかりで、ボードレールの言語表象なり象徴的な表現が「何」を言い当てようとしたのかにまったく触れていない、と思ったものでした。
 言い当てられている「それ」というのは、実存の問題の事で、私の意味とか、その生き方の正義がどこにあるかとか、そこに達しえない苦しみとか、例えばそういうものの事。ボードレールやランボーの詩に勇気づけられるのは、その問題に触れているのはあなただけではないと思わせてくれることで、しかもそれを日本文学みたいに「あはれ」を表現するところに止まらずに「私」の側の勝利の可能性を模索し暗示してくれている事。「夜半の一時」を例にとれば、「一切の人々に不平を抱」くのは、一般にそうした実存の問題はまだ共有されるほどにまで表面化していないからで、「私自らにも不満を感じ」るのは、私はそこに気づいていながらも出口が分かっていないから、みたいな。こういう人間がまだ解決できていない実存の問題を扱っているからこその詩であって、その詩がサンボリックの修辞法を使っているかどうかなんて本質じゃないと思うんですよね。象徴するところのものが何であっても素晴らしいものであるはずはないんですから。

 でも『巴里の憂鬱』が、「夜半の一時に」や「旅への誘い」みたいな詩ばかりかというと、そうではありませんでした。道化がどうしたとか、自殺した少年がどうとか、ちょっとした短編小説を詩的表現であらわしたようなものが多いのですよね。だから、これはまだランボーの『地獄の季節』や『イルミナシオン』という完成品を生む前に生まれた佳作だ、と感じました。それでも、大量に読んできたたくさんの詩集の中で、最も僕が読みたいところのものを扱っている数少ない一冊だと今でも思っています。


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TVドラマ『仮面ライダー』#4 最終回へ

KamenRider_4.jpg 仮面ライダーのレビューもいよいよ最終回!終盤は3部作とか4部作とか、回を跨いだ大作が多いです。見所は、ショッカー滅亡篇、にせライダー篇、そして最終回前後編です(^^)。

■第78話:恐怖ウニドグマ+ゆうれい怪人
■第79話:地獄大使!!恐怖の正体?
■第80話:ゲルショッカー出現!仮面ライダー最後の日!!
■第81話:仮面ライダーは二度死ぬ!!

 ショッカーが滅び、新たな悪の組織ゲルショッカーが登場する4部作です。東映制作の特撮ヒーローは、物語がマンネリに陥ると数話続きの話を挟んでドラマを動かしに行くときがあります。キカイダーのハカイダー回、V3のライダーマン回、そして仮面ライダーは、まずはこの敵組織の交代劇がそれです。ちなみに仮面ライダーはこの後にもう一山あります。
 強力な新組織の描写が良かったです。ショッカーの戦闘員が無残にも新組織に蹂躙され、仮面ライダーですら敵怪人どころか戦闘員と互角の勝負。これはやばいんじゃないの…というわけで、旧一号ライダーぶりに、ようやくドラマに緊張感が戻ってきました(^^)。

KamenRider_ShockerRider.jpg■第92話:兇悪!にせ仮面ライダー
■第93話:8人の仮面ライダー
■第94話:ゲルショッカー首領の正体!!

 人気の高いショッカーライダー篇です。100話近くある仮面ライダーもこのあたりから最終回に向かって話が展開。2人の仮面ライダー、アンチショッカー同盟、何体もの怪人、6人のにせ仮面ライダー、この4つ巴。
 この回の私的いちばんの見所は、飛んでいるヘリコプターにぶら下がるスタント!子供のころは、こういうのに熱狂して危険な仮面ライダーごっこに夢中になったんですよね。ベランダの手すりに自分でぶら下がったりしてね(^^)。
 話ですが、仮面ライダーとイナズマンの終盤は似ています。どちらも社会を変革しようとするアングラ組織が出てくるんです。これって、70年代安保闘争のセクトですよね、ぜったい。こうした組織に好意的な描写だったりするので、もしかすると、安保闘争に参加して大企業就職への道が絶たれた大学生たちが、脚本家になったり、映像業界に流れたりしたのかも。

KamenRider_ShockerShuryou.jpg■第97話:本郷猛変身不可能!!
■第98話:ゲルショッカー全滅!!首領の最後!!

 いよいよ仮面ライダーも最終回。この回の見所もスタントで、ロープウェイの天井に乗って移動。これがけっこうな高さで、下は湖!うおーこええ、キ〇タマがひゅんひゅんするぜ。子供のころ、こういうのに燃えたなあ。
 ドラマは、最終回にしてはあっさりしていたんですが、2段階で変化するショッカー首領のデザインがなかなか不気味で、子供のころはこれに「おお!」と盛り上がってました。ただ、ショッカーは滅んだものの、首領がどういう存在だったのかよく分からず残念。まあ、最終回といったって間髪いれずに次回作の仮面ライダーV3が始まったわけですし、ドラマをここで完全に終わらせる気はなかったんでしょう。

* * * * *
 実は僕、昭和の仮面ライダーシリーズは、最初の仮面ライダーからシリーズ第5作のストロンガーまで一話も見逃すことなく観ています。それぐらい好きだったわけですが、その上で言うと…「何度観ても感想はいつも同じ、昭和仮面ライダーを見るなら最初の仮面ライダーの1~7話だけでいい」ということです(^^)。それで足りない時はショッカーライダー篇とラスト2話、それでも足りない時はスタントが秀逸な回だけ見る、ぐらいの感じで充分じゃないかと。
 最初の7話は人生で何度見直したか分かりませんが、何度観てもいいです。特にバイクでの階段登りは、観るだけで幼少時に覚えたワクワクがフラッシュバックしてきます。仮面ライダーは幼少時の大きな思い出のひとつで、見ていると親や兄弟、そして子供のころに一緒に遊んだ友達の顔まで合わせて思い出す、タイムカプセルのような番組です。たぶん、面白くて見ているんじゃなくて、懐かしくて見るんでしょうね。実際に、昭和40年代の風景が記録されているわけですし。


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プロフィール

Bach Bach

Author:Bach Bach
神戸住まい、奥さんとネコと暮らす音楽好きです。音大は卒業したのですが、成績はトホホ状態でした(*゚ー゚)

ずっとつきあってきたCDやビデオの備忘録をつけようと思い、ブログをはじめてみました。趣味で書いている程度ですが、いい音楽、いい映画、いい本などを探している方の参考にでもなれば、大変嬉しく思います(ノ^-^)ノ

最近気になってるCDとか本とか映画とか
intoxicateに載っていた1枚。「Vyacheslav Artyomov」、ロシアの作曲家は名前が読めなくってムズカシイ。。「ヴャチェスラーフ・アルチョーモフ」と読むらしいです。伝説の「フレンニコフの7人」のひとりとの事ですが、それって何かすら僕は知らず(^^;)。作風的には初期は新古典的、後に民族的な様式、十二音技法や、複調性、ミニマルなんかも用いたみたい。ロシアの前衛は強烈なものが多いので、聴いてみたいです。アマゾンで買おうと思ったらダウンロード版しかなかった(;_;)。 オスマン時代から現代までのトルコ音楽のガイド本みたいです。おおお~、これは絶対に読もう!!
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