フルクサスの思想にいちばん近い活動をしていたアーティストって、ジョン・ケージと
オノ・ヨーコさんだったんじゃないかと思っています。そんなオノ・ヨーコで有名なのって、
ジョン・レノンの奥さんだった事と、「グレープフルーツ」という詩集のふたつじゃないかと。これは、
詩集「グレープフルーツ」の言葉をととのえて、写真家による写真を織り交ぜた改訂版みたいな本です。
昔、
ビートルズの特番を見ている時に、オノ・ヨーコさんの「グレープフルーツ」の一節が紹介されました。素晴らしくて、感激してしまいました。その詩を知るまでの僕にとってのオノ・ヨーコは、「ジョン・レノンをたぶらかした女」「ビートルズ解散の原因」「公開ベッドインとか、ちょっとずれた事ばかりやるアート気取りの女」みたいな感じ。それが、いくつか紹介された詩を聴いただけで、
「ああ、これはビートルズなんかよりやってる事が全然上だわ」と思ってしまったのでした。でも、そのまま詩は読んでなかったのです。
そして最近、古本屋でこんなものを見つけ、ようやくオノ・ヨーコさんの詩を読みました。いやあ、やっぱり素晴らしかった…。いくつかを紹介すると…
想像しなさい
千の太陽がいっぺんに空にあるところを。
ある期限で名前を変えなさい。
道を開けなさい。
風のために。
この本を燃やしなさい。
読みおえたら。 半分はものすごく信頼したと同時に、もう半分は悪い方に出た時のアーティストのごまかしもあるんじゃないの、とも感じました。信頼し、感動できたところは、上に書いたような詩を読んだ素直な感想。オノ・ヨーコさんの事を僕はよく知りませんが、つまり仏教的な考えをしているのではないかと思いました。それを、たとえばおばあちゃんが子どもに分かりやすいよう言葉を変えて話しているようなものではないかと。例えば、「風のために道を開ける」は、人は自然の一部であって、いずれ自然に帰すという考えが背景にあるもので、「読みおえたらこの本を燃やせ」は諸法無我、「ある期限で名前を変えろ」は無常の換言ではないかと。人って、年相応のレベルの知見まで届いていないといけないと思うんですが、この本の知見は、立派な大人の領域でしょう、みたいな。自分をどういうものとして認識して、生きる上でどうあるか、という事ですよね。
一方で、美術系のアーティストっぽいごまかしをしてるのではないか、という疑いも拭い去れませんでした。あくまで一例ですが、美術系の人が音楽をやると、美術的な文脈で音楽を理解しようとすると思いませんか?音楽の理解の仕方は、音楽という理解の仕方以外には、正しく受け止める事が出来ないと思います。音楽っていうのは、ある種言語的なところがあって、たとえばアーティキュレーションとか要素のつながりとか、ある一定以上の音楽では文化的に断絶された地域の音楽でも似た言語機能を持ってるんですよね。でも、美術家とかダンサーって、こういうところをまるで読み取らずに、印象だけで「癒された」とか「ちょっと○○だ」といってしまう時があります。これに近いものをこの本にも感じました。こういう疑いって、ランボーや
マラルメや
ツェランにはまったく感じないので、言葉の使い方が相応しくないなり、そもそもやっぱり分かってないなりといった事があるんじゃないかと思ってしまうのです。
とはいえ、引用したような詩では、本当に「ああ…」と気づかされるような感覚がありました。素晴らしい詩だと思いました。そんな中、僕にとって一番グサッと来た詩は…「掃除をしなさい。」…うわあ、どさくさに紛れて普通に怒られた気分になってしまいました(^^;)。