ロバート・ジョンソンをきっかけに始まったデルタ・ブルースの旅は、時代をさかのぼる形で進み、最後に行き着いたのがチャーリー・パットンでした。間にサン・ハウスを挟むかどうかは人によって差がありそうですが、いずれにしても日本ではロバジョンがスタートでパットンに至るルートを辿った人が多いのでは?ソニーが版権を持ったこともあって、日本でのレコードの紹介もロバート・ジョンソンは強力でしたしね。
でも
当時の人気ではチャーリー・パットンが圧倒的だったそうです。ブルースでのデルタ・スタイルを確立したばかりでなく、ブルース以外の音楽もなんでも弾いてしまうわ、ギターを背中に背負って弾くなどのエンターテイメント性も高いわで、他のブルースマンはパットンがいない時の代役ぐらいの格差で、パットンの独占状態に近かったみたいです。
このCDは戦前ブルース発掘の雄ヤズーがリリースした
超有名なコンピレーション盤。なにせ元よりヴィニール盤もLPもない時代なので、この時代のブルースのLPやCDは、ほぼSP時代のシングル盤を集めたコンピレーションなんですよね。
■すでにアコースティック・ブルースの技術がすべてあるような 1920年代、しかも情報の制限された南部アメリカの黒人音楽だというのに、アコースティック・ブルースののギター弾き語りの演奏スタイルが相当なところまで確立されている事に驚きました。ストローク部分が多く、平歌部分はまさにストロークだけでの伴奏という曲もそれなりにあったんですが、そういう曲ですら要所でバスの下降ラインを使ったり(Screamin’ And Hollerin’ The Blues。そうそう、
チャーリー・パットンって、バスが短7、長6、完全5と下ってくるパターンを多く使うんですが、これが最高に気持ちいい^^)、ストロークしながらボトルネックでループするフレーズを演奏したり(Mississippi Bo Weavil Blues)。このちょっと挟み込んでくるサムシングが猛烈にカッコいいです。
で、この猛烈にカッコいい部分は、本人なりお客さんなりもやっぱりカッコいいと感じたのだろうと思います。というのは、カッコいい技巧的なギター演奏部分が曲の一部だけじゃなく、だんだん全体に広がっていっているんですよね。デルタ・ブルースの録音を、パットン、
サン・ハウス、ロバート・ジョンソンという年代順に並べると、スタイルは共通しているけど、だんだん技巧部分が曲全体に広がっていくのが分かります。それはパットン自身もそうで、パットンの演奏の中にも、バスとコードをストロークでコンビネーションしながらメロディとなるリフをスライドで弾き続ける曲もありました(たとえば「A Spoonful Blues」)。ここまでくると、少し後の世代のロバジョンや
ライトニン・ホプキンスが使った技巧ですら、その基礎がすでにメソッド化されていると感じました。
ただ、ボトルネックは常に使うわけでもなくて、これならなんちゃってだけどギリギリ真似できそう(^^)。そういう意味で言うとたしかに初期スタイルなのかも…あ、でも歌いながらこれを弾くのはやっぱり簡単じゃないかな…。
一方、
このあたりのブルースって、楽器演奏部分が仮にテクニカルであったにせよ、表現にはそれほど重きを置いていないように感じました。これはチャーリー・パットンに限った話ではなく、ブラインド・レモン・ジェファーソンやサン・ハウスもそう。表現やエモーショナルな部分は歌や詞が分担していて、ギターはそれをがっちりと受け止めている、みたいな。
ほら、後年のブルースになってくると、西の方に広がっていったモダン・ブルースやアーバン・ブルースなんかは、かなり楽器表現が豊かじゃないですか。
Tボーン・ウォーカーもB.B.キングもそうですが、溜めた後にチョイーンと鳴らしたり。ギター弾き語りの戦前のデルタ・ブルースは、そういうブルースとはギターの役割がそもそも違っていたのだと思います。
■漠然とした南部音楽が「ブルース」に チャーリー・パットンって、「色々と乱れ咲いていた当時の南部音楽を【ブルース】というひとつの確立したアメリカ音楽にまとめあげた人だ」、なんて言われることがあります。私はそこまで20年代のブルースを多く聴いていないので、それが事実かどうかは分かりませんが、たしかにいろいろな音楽とは未分化のままの歌音楽ではなく、統一したひとつのスタイルが出来上がっているとは感じます。
ところで、何が音楽をひとつの統一したスタイルにしているのでしょうね。私的には、軸には
ソングフォームの確立ととギター演奏のメソッド化があると感じました。それってワンパターン化という意味ではなく、チャーリー・パットンとしてのひとつの型が出来たという意味。曲や曲想のバリエーションは大変に多いんですよね!実際、パットンは「何でも屋」と呼ばれたほどで、色んな音楽を演奏した人だったらしいです。ブロードサイド・バラッドでも、白人音楽だったヒルビリーでも、あるいは各種ダンス音楽でも、それこそなんでも。プロとしてけっこうエンターテイメント意識も高かったみたいで、ギターを首の後ろに乗せて演奏したりして、お客さんを楽しませていたらしいです。
それだけ多様でありながら、その多様さがバラバラに聴こえないのは、まずがギターの演奏メソッドがある程度統一されているからじゃないかと。バスとコードはストローク。その上でボトルネックを使うにせよ使わないにせよ、メロディを上に乗せて同時に演奏することがある。ターンバックではバスの下降ラインを使う…こういうものが、違う曲想であっても共通して演奏に用いられるので、同じ音楽という統一感を出していると感じます。
ギターの演奏メソッド自体が「ブルース」というスタイルを確立している、みたいな。このアルバムに入っていた「Mississippi Bo Weavil Blues」なんて、当時の他の南部音楽とは明らかに違っていて、これを何と呼ぶかというと、やっぱり「ブルース」と呼びたくなります。
■他の音楽との違いもまたブルース 「ブルース」というジャンルの確立は、他の音楽との違いでも起きたように感じます。チャーリー・パットンって、他のブルースマンみたいに旅をうつ事をあまりせず、ミシシッピ・デルタに留まって演奏していたらしいです。そんなパットンの留まったドッカリーというミシシッピの地域って、南下すればジャズのメッカであるニューオリンズだし、北上すれば
エルヴィス・プレスリーのメンフィス、西に行けばカウボーイ・ソングどころかメキシコ音楽なんかも入ってきているテキサスです。アメリカのアーリータイム・ミュージックの宝庫になってる地域なんですよね。
例えば、同じ黒人音楽だった南部ジャズと比較してみると、1920年代後半だと、
ルイ・アームストロングの
ホット・ファイブやホット・セブンが大ブレイクした頃です。あのズン・チャッ・ズン・チャッってリズムに乗せて、みんな同時にアドリブしちゃうやつです。アームストロング関連で言うと、彼が参加した
キング・オリヴァーの楽団なんかはそれがもっと原始的で、クレオール音楽的な感じ。同じ南部でも白人音楽のカウボーイ・ソングは、ギターをストロークして歌う部分はブルースに共通します。これらの音楽は共通項がいっぱいあって、未分化な部分も多いんですよね。
それが、少なくともチャーリー・パットンとなると、弾き語りであって、ギターがメカニカルな演奏をして…みたいなひとつのスタイルとして、他の音楽と明らかに切り分けられる特徴を持つところまで来ていました。
デルタ・ブルースは歌いものと語りものの中間にあるものだと思いますが、あのスタイルが他の音楽と区別された「ブルース」スタイルとしてはっきりしていったのが、チャーリー・パットンや
その時代のミュージシャンが築き上げたものだったのでしょう…適当な推測ですけど(^^;)>。
■下世話、悲しみ、時事ネタ…飾る事をしない赤裸々な詩こそブルース! ブルースの詞って、隠喩が大量に使われますが抽象的という事はなく、むしろ日常生活にべったりくっついたものと感じます。チャーリー・パットンには「ポニー・ブルース」という、アメリカ政府が保護対象にまでした有名な曲があるんですが、これなんて隠喩を使った下世話の極み。「ベイビー、俺のポニーに鞍を付けてくれ、俺の黒馬に鞍を付けてくれ。でも俺に乗ってくれるやつは見つからない」みたいな詞なんですが、ここでいうポニーや黒馬って…。切実さもそうですがユーモアもあるんでしょうね。
「34 Blues」という曲のばあい。34というのは銃の口径の事かと最初は思っていたんですが、誰が車を買って、誰が仕事にあぶれ…みたいに実際にあった事を朗々と語って、最後に「それは悲しみとなるだろう、神よ、そしてそれは涙となる」で締める所を見ると、もしかするとミシシッピの1934年を歌っているのかも。
むかし、三井徹さんという方の書いた『黒人ブルースの現代』という本を読んだことがあります。なにせ昔に読んだので正確な文言は覚えていないのですが、そこで三井さんは「ブルースというのは悲しみでもあるけど、同時に安堵でもあって、そのコンプレックス」みたいなことをおっしゃっていました。チャーリー・パットンの歌を聴いていると、三井さんの言わんとしている事は何となくわかって、「Pony Blues」なんて男の欲望や悩みがそのまま語られると同時にユーモアでもあるし、「34 Blues」は時事ネタを絡めた悲しみではあるんだろうけど、それが悲しみで終わらずある種のカタルシスになっているので、悲しみの歌を聴いて悲しみで終わらずに何かスッキリする感覚があります。こういう詞って、当時のアメリカ南部の黒人コミュニティで共有されていた生活感とリンクしたものなんでしょうね。
チャーリー・パットンの歌を聴いていると、だんだんタイムスリップした感覚に襲われる自分がいて、それって最高に素晴らしい体験なんですけど、このタイムスリップ感覚は詩によるところが多いと思っています。
■美声からだみ声に…喉を掻き切られたパットン そして、1929年から34年というたった5年の間に、本当に同じ人かというほど、声質が変わっていてビックリ。先ほどの「A Spoonful Blues」は澄んだ声なのに、「High Water Everywhere」はすごいだみ声。
そうそう、
チャーリー・パットンって喉をナイフで切られたことがあって、さらに酒好きも重なって、43歳で死んじゃうんですよね。もしかすると29年から34年までの間にのどを斬られたんじゃ…。そのへんも実にブルースマンです。本当は綿花栽培してなきゃいけないのに、遊芸民として生きた戦前ブルースマンの結末って、こういうものが多いです。ロバジョンは愛人の旦那に毒を盛られた説があるし、警察から逃げまくったブラインド・ジョー・レイノルズは眼を散弾で吹き飛ばされてるし、ブラインド・レモン・ジェファーソンは職を失って吹雪の中で死んだというし。綿花農場の小作人として生きていけないアウトサイダーが流れた先、それが30年代の南部アメリカで生きたブルースマンなのかも知れませんね。
久しぶりに聴きましたが、もともと好きだったとはいえ、想像以上に耳を奪われました。詞がまた赤裸々で面白い。デルタ・ブルースって、聴き始めるとずっと聴いていたくなります。う~んこれはいい…そしてこのCD、なんと曲ごとにどういうオープンチューニングが使われたのかが書かれていました!自分で採譜して、ボトルネックを使ってもきちんと弾けるチューニングを考えるのがめんどくさい人にとっては、これは宝じゃないでしょうか。。というわけで、昔から聴かれてきたYAZOO の名コンピレーション、おすすめです!