
1964年2月25日録音(リリースはドルフィー死後となる64年8月)、
エリック・ドルフィーの死後にリリースされた、スタジオ録音アルバムです。全5曲で、すべてがドルフィーが書き下ろした曲でした。62年に「自分のグループを作るので抜けさせてくだせえ」とジョン・コルトレーンのバンドから抜けたドルフィーが、いよいよ本格的なリーダー・グループを始動させ、しかもついにブルーノートへと吹き込むとあって、相当な意気込みで創作に取り組んだ作品だったのではないでしょうか。そう感じさせるだけのものがいっぱい詰まってました!バンドは2管クインテットで、メンバーはドルフィー (a.sax, flute, bass cl)、
フレディ・ハバード (tp)、ボビー・ハッチャーソン (vib)、リチャード・デイヴィス 8b)、アンソニー・ウィリアムス (dr)。
挑戦する姿勢は、1曲目「Hat and Beard」から随所に垣間見えました。作曲で言えば、テーマ・メロはホール・トーンで、拍子も9/4…もう、当たり前のものなんて作らないという気合いが凄いっす。しかも奇をてらっているわけではなく、こうしたのには理由があったと思うんですよね。なぜホールトーンを使うかは、ドルフィーのアドリブの組み立てで重要になってくる音階のひとつがホールトーンだからではないでしょうか(詳しくはアルバム『The Illinois Concert』の感想を^^)。
一方、9/4にした理由は、4分音符を続ける必要があったけど、それで音楽が退屈にならないようにするため。なぜ4分音符を続ける必要があったかというと…この曲のドルフィーの得物はバスクラなんですが…ヘッド部分の管がバス・クラリネットだけになる部分のリピート回に、バスクラだけで同時にふたつの音が出てるんですよ!つまりマルチフォニックを飛び道具としてではなく作曲にそのまま組み込んだわけですが、これを速いパッセージで出していくのは難しかったんでしょう。というか、出来るだけで凄いんじゃないかと管楽器のシロウトの僕は思ってしまうんですが(^^;)。。でもこんなに綺麗にふたつの音が出るものなのか…いやあ驚きました。これをやりたかった事で、ヘッドがああなったという僕の推理が当たってるかどうかは、ドルフィーさん亡き今、誰にも分りませんね。。あ、特殊奏法への挑戦という意味で言うと、この曲はドルフィーのバスクラにしては珍しく、フラジオも使ってますね。
こういった工夫は、すべての曲に感じることが出来ました。もう、このアルバムは全曲ともマジメにアナリーゼするに値するんじゃないでしょうか。そういうジャズのアルバムって、
ジョージ・ラッセルの『
Jazz In The Space Age』とか新生ジミー・ジュフリー・トリオのアレとか、ジャンヌリーとラン・ブレイクのアレとか、僕は数えるほどしか人生で出会ってきませんでしたよ…いやあ、凄いです。ドルフィーさんってきっと視野がジャズの中だけに閉じていなくて、現代音楽とかクラシックとか、色んなものにも開かれていたんでしょうね。
ただこのアルバム、サウンドが非常に冷たいです。それって作曲や調的なものなどが理由ではなく、単純に帯域やダイナミクス上の空虚さが問題だと思うんですよね。ありていに言うと、ボビー・ハッチャーソンのヴィブラフォンが現代音楽的とも言えるような冷たさと同時に、バンドをサウンドさせることやグルーヴさせることにブレーキをかけている気が…いや、ハッチャーソンさんを責めるわけでなく、この音楽にダイナミック・レンジの狭い楽器は合わなかったという事な気がします。同じボビー・ハッチャーソンの演奏でも、この前年となる63年に録音されたジャッキー・マクリーンのアルバムでの演奏なんて、ボビー・ハッチャーソンこそが影の主役じゃないかというほどに、音楽をリードしても致し、目指す音楽にフィットしてもいたんですよね。
これに近い音楽と言って、僕はついトニー・ウィリアムス『Spring』やジミー・ジュフリー『Fusion』あたりを思い浮かべてしまいますが、あれらって和声楽器がピアノで、それぞれハービー・ハンコックとポール・ブレイ。もう、和声に対する熟練度が…。火の出るようなドルフィーやフレディ・ハバードの演奏を聴くに、本当はもっと熱い演奏を出来る所までバンドがこの音楽に熟練出来ていたら…と思ってしまうのは贅沢ですね。だって、こういう新しい音楽での演奏に熟練するには、それが出来るレベルのプレーヤーですらけっこうな時間が必要でしょうし。
それにしたって、
驚異のアルバムである事は間違いないと思います。アルバム『
Iron Man』に次いで、アドリブから自分の音楽言語を構築してきたエリック・ドルフィーが、それを作曲に反映させてきたと感じました。このアルバムのリリースはブルーノート…さすがアルフレッド・ライオン、どこかでジャズのフォーマットでの演奏をドルフィーに要求してきたようにしか思えない他のレーベルのスタジオ録音と違って、ミュージシャンがやりたい事をそのままやらせたように思います。ブルース・リーが生涯きっての大傑作『
燃えよドラゴン』を自分では見ることが出来なかったのと同様、ドルフィーは自分でこのアルバムを聴くことが出来なかったわけですが、これが生前に発表されていたとしたら、ドルフィーの人生もジャズの命運も、また違っていたのかも知れません。