
私が社会人になったときに上司から聞いたのですが、60年と70年の安保闘争の時代、大学は抗議デモばかり、授業も休校ばかりでほとんど授業に出た記憶がないそうです。教室にバリケードを作り、学生たち皆で宿泊して抗議をするという事もあったそうで。
私が子供のころ、安保闘争の頃の当時の大学生に対して抱いていたイメージは、もうひとつあります。男も髪を伸ばして、下駄を履いて、4畳半のアパートで彼女と同棲して、時には友達と麻雀をして…こんな感じです。まだ幼少の頃に抱いていた大学生ぐらいのお兄さんに関するこうしたイメージを表現しているものが、日本のフォーク・ミュージックでした。フォーク・ミュージックの一部は、生活に密着したものであり、自分の考えていることを何とか伝えようという行為としてあったようです。レコード産業の中に入ったフォークとは違うフォークが、新宿の路上などで歌われていたそうです。
岡林信康という人を初めて知ったのは、「友よ」という曲を通してでした。聞けば知らない人はいないだろうというほどに有名な曲だと思うのですが、その詞の内容が、先に書いたような当時の大学生に対するイメージそのままなのです。本当に、バリケードの中で生きながら、みんなこの曲を歌ってたんじゃないかとか、勝手に想像してしまいます。
それで、調べてみると…岡林さんのお父さんは牧師さんだったそうで、それも世襲ではなく、自ら進んで牧師になり、田んぼの中に教会を作ったとか。さらに、岡林さん本人も、労働者のための歌を作ったり、農業に従事しながら人間の幸せなコミューンを作り上げようと畑を耕し続けたり…。
人間は、習慣の動物だといいます。日々を生きていて、なぜ働くかとか、どう生きるかとか、そんなことはほとんど考えません。自分の行動を決定しているのは、実は自分の判断なんてほとんどなくて、習慣とか社会的慣習なんかがそれを決めている。でも、ひとたびそれに疑問を持てば、もう、自分で答えを見つけるしかありません。そして、答えに辿り着くことは、とても難しいんじゃないかと思います。しかし、それが本当に切実な問題であったら、そして出した答えが正しいと思えるのであったら…社会的な慣習に逆行する道であっても、実行するしかないんじゃないでしょうか。こういうときに、口だけではなく、実際に行動する人に、私は共感を覚えてしまいます。
自分の今までの生活を捨てて、農業に従事したり、「本当はこれが正しいんじゃないか」というメッセージを、人の言葉の借り物ではなくて発したり、これをいうのは容易いですが、やる事が出来る人って、どれぐらいいるのでしょうか。岡林さんという人の音楽には、なにか悩みまくった挙句に辿り着いた言葉があふれているように思えます。
*2023年8月追記:
このアルバムを久々に聴きなおして、良いと思った曲が色々とありました。バンド編成の曲が最初とラス前に置かれて、間にあるフォークギターだけの伴奏の曲をサンドイッチしたアルバムですが、岡林さんと中川イサトさん(「
五つの赤い風船」出身の人です)のフォークギターだけを伴奏にした曲が素晴らしかったです。曲や演奏が良いというより、演奏がシンプルな方が詩に耳が行きやすいのかも知れません。
特に、A面の3~5曲目の流れはヤバいほど良かったです。
「
モズが枯木で」(サトウハチロー詞、徳富繁曲)。無伴奏での歌で、曲想は日本民謡的。サトウハチローの詞に、
1935年に曲が作られたものだそうで、時代は日本が満州へと進出していった時代。もずが枯れ木で鳴いて(泣いて)いる。枯れ木という事は、寒い季節。薪を割る担当は兄だが、今は薪を割る音がしない。理由は兄は鉄砲かついで満州へ行ったから。この詞を無伴奏で歌ったセンスが素晴らしいです。「北帰行」もそうですが、太平洋戦争へと向かう日本の状況を嘆いた歌って、日本の原風景と戦争の冷たい雰囲気が入り混じって、ゾクッと来るものがあります。
「
お父帰れや」(白井道夫詞、真木淑夫曲)。出稼ぎに行ったお父を思う歌でした。「夜なべ仕事に」という詞からすると、歌っているのは子供ではなくて奥さんでしょう。この出稼ぎ労働者や日雇い労働者の哀愁を、働いている当人の立場からうたっているのが「
山谷ブルース」(岡林信康詞/曲)。出稼ぎという古い時代の日本の庶民の哀歌と思いましたが、よく考えてみれば日本の50~60年代って、オリンピックの突貫工事や東京タワー設立に新幹線の線路工事と、日雇い労働も出稼ぎ労働も普通にあった時代だったんですよね…。