
3つ前の記事『日野皓正 / ブルーストラック』の1曲目でのジョン・スコフィールドさんのソロがあまりに素晴らしかったもので、しばらくジョンスコさんのアルバムを聴き漁った事があります。で、結論は…期待外れのものが多かった(T-T)。。くっそー、日野さんのアルバムさえ聴いてなかったら、僕はこの人に引きずり回されずに済んだのに…。
これは、パット・メセニーとのアルバムで、ギター2本にベースにドラムという編成。1曲目は、ソロ・アドリブするのが難しくならない程度の和声進行の上で、延々とギターソロが続くんですが…微妙です。僕にとっては、少なくとも二つの残念ポイントがあって、それはこの時代のフュージョン寄りジャズすべてに共通する弱点に思えてしまいます。
ひとつは、ソロ・アドリブにばかり夢中で、音楽全体への配慮が浅い点。このアルバムの発表は1993年なんですが、この頃のジャズ/フュージョンって、どういうコード進行上でどういうスケールで演奏する可能性があるかという事を追及している節があります。たとえば、6曲目
"NO WAY JOSE"と10曲目
"ONE WAY TO BE" あたりは、この方向でいうと相当に面白いです。しかし、問題は他の曲。結局、和声との兼ね合いをチャラにしてラインだけをチロチロやられても…。ソロってそんな浅いものじゃないと思うんですよね。例えば、ほぼワンノートの状態でのソロで言えば、マイルス・デイヴィスの"So What"なんかは非常に参考になると思うんですが、どうやってシーケンスを発展させるかとか、ソロを通してひとつのドラマを完成させていると思うんですが、ここでのソロはそういう事は間違いなく考えてない。飽きるまで演奏して、終わったらソロを引き継ぐ、みたいな。いやあ、これじゃダメだわ。そしてバックも…例えばベースは、ギターの演奏には全然付き合わず、淡々とシーケンスを演奏するだけなので、つまり
ギターが何を演奏しようが、音楽には何の影響もしないカラオケ状態なわけです。スティーヴ・スワロウともあろう人が、こんなバイトモードの手抜き演奏しちゃうんだな…。レコーディングに呼ばれて、スタジオで初めて楽譜を見たとか、そういうレベルの演奏です。
もうひとつは、表現に対する配慮が浅い点。ひとつ前の記事にも書いた通り、例えばギターの音作りひとつとっても、既にプレイヤーの意識の低さがあらわれてしまっているように思えます。機械的にコーラスをかけたようなサウンドをつくるので、強く弾こうが弱く弾こうが、音色も音量も均一になってしまって、表現が奪われています。音色は更に辛いことになっていて、どうやって演奏しようが音色の変化がつけにくくなって全部キラキラサウンド(=_=)。まったく同じ音色で演奏するなんて表現としては相当にマズい。特にギターなんて、うまい人が演奏すると音の使い分けがすごくって、例えばセゴビアというクラシック・ギタリストの演奏を聴くと、ギター1本で演奏しているのに、オーケストラが鳴っているように各パートの音色を使い分けた演奏になる!!理由は分かりませんが、このアルバムのふたりが表現よりもキラキラサウンドを優先されているのは事実なわけで…まあそういうレベルの音楽なんだと思います。
フュージョンという音楽は、その成立段階から非常に微妙な所に成立していて、いい所もすごくいっぱいあったけど、残念な所がそれ以上に多すぎた音楽だと思っています。表現面がすごく浅い音楽。楽譜に書かれているような音符をどれぐらい速く演奏出来るかとか、どういうスケールを使えるかとか、音楽をそういうメカニカルな視点で見ているみたいで、ぜんぜん音楽的な表現にならない。フュージョンの人というのは、指先が器用な人が多いと感じます。その技術を音楽表現に生かしてくれたら…そんな風に感じずにはいられない、そんな残念な1枚でした。