ひとつは、ソロ・アドリブにばかり夢中で、音楽全体への配慮が浅い点。このアルバムの発表は1993年なんですが、この頃のジャズ/フュージョンって、どういうコード進行上でどういうスケールで演奏する可能性があるかという事を追及している節があります。たとえば、6曲目"NO WAY JOSE"と10曲目"ONE WAY TO BE" あたりは、この方向でいうと相当に面白いです。しかし、問題は他の曲。結局、和声との兼ね合いをチャラにしてラインだけをチロチロやられても…。ソロってそんな浅いものじゃないと思うんですよね。例えば、ほぼワンノートの状態でのソロで言えば、マイルス・デイヴィスの"So What"なんかは非常に参考になると思うんですが、どうやってシーケンスを発展させるかとか、ソロを通してひとつのドラマを完成させていると思うんですが、ここでのソロはそういう事は間違いなく考えてない。飽きるまで演奏して、終わったらソロを引き継ぐ、みたいな。いやあ、これじゃダメだわ。そしてバックも…例えばベースは、ギターの演奏には全然付き合わず、淡々とシーケンスを演奏するだけなので、つまりギターが何を演奏しようが、音楽には何の影響もしないカラオケ状態なわけです。スティーヴ・スワロウともあろう人が、こんなバイトモードの手抜き演奏しちゃうんだな…。レコーディングに呼ばれて、スタジオで初めて楽譜を見たとか、そういうレベルの演奏です。