
発表当時は「未来の音楽だ!」なんて言われたアルバムだそうです。A面がシンセ全面フィーチャーのダンス・ミュージックで、B面がイーノさんの世界という、コンセプトが『ヒーローズ』そっくりのデビッド・ボウイさんのアルバム。というか、こっちの方が発表が先ですね(^^)。ジャーマン・プログレでドロッドロに使われてロックフィールドに活路を見出したシンセが、ポップスのシーンで「雰囲気係」とか「ストリングス代わり」みたいな別の使われ方をし始めた最初の頃のアルバム。以降、80年代の洋楽ロック/ポップスは4リズムにシンセ、みたいな音楽が定番化しました。
このあたりのボウイさんのアルバムは、ボウイさんが無機質なアンドロイドのように感じられる所(やたらとダブルにしたりエフェクトしたりするから余計にそう感じます)、これを良いと取るか悪いと取るかで、好みが分かれる気がします。僕個人は、BGMに近い感覚でこれを聴くとけっこう良い感じなんですが、じっくり聴こうと思うと「あれれ…」となっちゃうのが不思議。インストを挟んだり、アーティスティックに見えても良さそうな事を結構やってるのに、「すごいな、これ!」とは感じなかったなあ。理由は、ヴォーカルにもバックトラックにも感じられるこのアンドロイド感というか、機械的な無味乾燥な感じにあるのかも。
このアルバムのバックトラックはシンセサイザー音楽のブライアン・イーノさんのプロダクト。僕は鍵盤奏者だったので、仕事でシンセ・キーボードを演奏させられる機会もそれなりにありました。そんな僕ですら、
シンセがデジタルに近づくほど、僕が思っている楽器というものとは全く違うもの、楽器じゃないものとしか思えなくなっていくんです。変な話ですが、僕はピアノもサックスも歌もヴァイオリンも同じくくりに出来ます。でも、ピアノとシンセ・キーボードは同じくくりにする事にものすごい抵抗を覚えるんですよね。。音の合成装置としてのシンセの音をどうやって音楽にしていくか…みたいな大昔の現代音楽系の電子音楽とかはムチャクチャ面白く感じますし、大好きです。でも、ストリングスの代用品とか、表現がゴソッと奪われるまるでサイン波のようなリード音とかの「何かの楽器の代用品」みたいなシンセの使われ方は…デモテープつくりとかで、「とりあえず」レベルでちょっと使う分には便利なんですが、これでライブやCDまで作るとなるとちょっと…。音ではあるんですが、声にはなりえないもの、みたいな。結局、それがこのアルバムを聴いていて感じる、「
レコーディングルームの中だけで完結している虚構」みたいな印象につながってる気がします。写真だとまだその先に現実がつながってるように思えるけど、CGだとCGそれそのもので閉じてしまっている感じがしちゃう…みたいな感覚に近いでしょうか。
バックトラックだけじゃなく、ボウイさんのパフォーマンスにも似たものを感じます。自分の中で突き詰めてたどり着いた音楽ではなくて、なんとなく目について面白そうなものを「こういうコンセプトでやったらどうだろう」ぐらいの浅さ、芝居臭さを感じてしまうのです。これはボウイさんの活動全般に感じます。それはそれでクールかも知れませんが、「演じてる」感があるものだから、作られたものを客観的に鑑賞する、みたいな距離感にどうしてもなっちゃうんですよね。
でも、人間臭さをなくすなら、あるいはそこに価値を見出しに行くなら、これはありだと思いますし、その路線はロボット・ヴォイスとかYMOとか、以降の日本のポップスにも受け継がれた美観ではあるんでしょうね。このアルバム自体が、「ロックのようで、今までのロックとは別のもの」みたいな80年代以降の洋楽ロック/ポップスの、あの傾向の先駆けだったのかも知れません。
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