
アメリカ文学の傑作と言われているヘミングウェイの
『老人と海』を読んで、「マジで意味わかんねえし!」と思った僕は、しばらくヘミングウェイから離れておりました。でもまたヘミングウェイを読む機会が訪れたのです。きっかけは、コリン・ウイルソンが書いた『
アウトサイダー
』にヘミングウェイの短編小説「兵士の故郷」が紹介されていたから。これは読んでみたいと思ってさがしたところ、この短編集に収録されていました。この短編小説集は面白い話が結構あって、ここでヘミングウェイがちょっと理解出来始めた気がしたのでした。
ヘミングウェイの小説って、彼の実体験から書かれたものが多いそうです。ヘミングウェイは1899年生まれ1961年没で、アメリカ人としてふたつの大戦を見てきた人です。たしか
、1次大戦やスペイン内戦にも参加していて、釣りが好きで、お父さんが医者で、ボクシング経験もあった人のはず。こういう生き方をした人なので人生経験が多いと同時に虚無感にさいなまれる事も多かったようで、
最後はショットガンで自殺しました。これらの経験が小説にひしひしと出てくる感じ。というわけで、この短編集で印象に残った作品をいくつか。
まずは、恐らくヘミングウェイ自身と思われる「ニック」という人が主人公の短編群。ニックは少年から青年へと成長していきます。
「インディアン部落」は、医者のお父さんと一緒にお産に出かけた少年ニックが、
子どもが生まれると同時に、隣のベッドで妊婦の旦那さんが死ぬのを目の当りにするという話。これがぜんぜん劇的ではなく冷めた文体で書かれていて、読み終わった後に「ん?何を言いたかった話なんだ?」となったんですが、よく考えて自分なりに出した結論は、
生と同じ数だけ死もある、という事なのかなという事でした。そして、こういうのを
作者の見解をいっさい述べずに事実だけをサラリと書くこのクールさがヘミングウェイであって、ロスト・ジェネレーションであって、ハードボイルドなんだと思いました(^^)。アメリカン・ニューシネマがこんな感じですよね、前触れもなく当たり前のようにサラッと死んで終わる、みたいな。
「医師とその妻」はその続編。医者のお父さんが患者とちょっとしたトラブルになり、診察を止めます。すると善意の塊のお母さんが猛抗議。お父さんはめんどくさそうに森に狩猟に行きますが、ニックはお母さんではなくお父さんの猟についていくというもの。これも、「え?何がいいたいの?」となったんですが、頑張って自分なりに解釈。「現実はお母ちゃんが言うような理屈だけじゃないんだぜベイビー」という男性理論のほうに息子は正義を感じた、ということなのかな?だんだん、ヘミングウェイにハマってきたぞ(^^)。でも、30年ほど前に一度読んだはずなのに、まったく覚えてません。。
「拳闘家」、ああやっと覚えてる小説が出てきた!貨物列車に無賃乗車していたニックが車掌に汽車から突き落とされて林の近くをさまよっていると、たき火をしている2人組に遭遇。コーヒーをご馳走になったのはいいけど、途中でひとりがいきなり切れて暴行を加えてきます。もうひとりがそいつをうしろからボコッと殴って暴行野郎はあえなく気絶。キレやすい人のほうは元ボクサーで障害を負った人なのでした。というわけで、これもどうという話には感じなかったんですが、貨物列車に飛び乗って旅をするとか、焚き火して食事やコーヒーを沸かして生活してる人々とか、ほんのちょっと前の合衆国の生活ってこんなんだったんだな、と思って感慨深かったです。リアルな
映画『スタンド・バイ・ミー』みたいな。
「心が二つある大きな川」は、「兵士の故郷」に似た匂いのする短編で、ニックは青年になってます。川に釣りに出て、夜キャンプして、翌朝バッタを捉まえてそれをえさに釣りをするというもの。以上。え?ますますわからん…と思ったんですが、この釣りに行く主人公が
戦争から帰ってきて、戦争症候群に陥った人なんでしょうね。それが、アメリカの大自然に触れて生き返った心地がするという。この話はなんどか読み返したんですが、読むたびに「バッタが焦げたような色をしているなんていう描写は戦争の表現なんだろうな」とか、読むたびに色んな事が見え始めて面白かったです。
さて、ニックが主人公でない短編。まずは、そのうちで面白いと思ったもの。
「兵士の故郷」、僕がこの短編集を読もうと思った動機になった話です。
戦争から帰ってきた青年が、仕事につく事もせず虚無にさいなまれてぼんやり生きているというもの。心配した母親から声をかけられ、仕事につくよう促されますが駄目。「おまえはお母さんを愛していないのかい?」と訊かれても、「ぼくは誰も愛してなんかいないんだ」と答える始末…重症だね。で、おしまい。いつか紹介した
カミュの『異邦人』にとても似た感じですが、これぞロスト・ジェネレーション文学、のちのアメリカン・ニューシネマにも匂いが似てます。
「キリマンジャロの雪」。キリマンジャロ山で壊疽にかかった作家の男が、妻の看病を受けながらも
自分の死を予期し、作家だというのに大事な事を何ひとつ書き残さなかった事を後悔。ある日妻が起きると、夫はハイエナに食い殺されていた。こんなに自分の胸に刺さる短編もないです、怠惰に過ごしてはいけない、生きているうちに心に決めた事のひとつでも実現しないと…。
「挫けぬ男」、これも印象に残っていた話で、全盛期を過ぎた闘牛士の話。闘牛で病院送りになった男が、もう一度やらせてくれと直訴。闘牛士仲間やオーナーたちが止めますが、それでも「何度もやめようと思ったがやめられないんだ」といって牛に挑戦する話。しかし、牛に突かれて病院送り。この話、ちょっと胸が痛いです。音大を出たけどどこかで音楽をあきらめざるをえなくなった人、ずっと野球を挑戦して来たけどプロに入れず、それでもやめられない人…こういう人って、
やめたらやめた事に一生付きまとわれるという恐怖があるんでしょうね。この短編では、「じゃ、どうすればいいのか」という結論は触れられていません。そこがロスト・ジェネレーション文学らしいです。
「異国にて」は、戦争で負傷して病院に入った男の話。そこで、やはり負傷した少佐に出会い、「結婚なんかするもんじゃない」と激しく叱咤されます。なぜと訊いても少佐は怒り狂うばかり。医者に訊くと、少佐の若い奥さんが今死んだばかりだった。
そして、僕では理解不能だった短編。
「エリオット夫婦」、これがいちばん意味わからなかったです。年増のおばちゃんと結婚した詩人で大学院生が、ハネムーンに出かけてせっせと子供を作ろうとするけどうまくいかない。以上。ええ~~~分からねえ、まったく分からねえ。。でもなんか意味ありげなので、言いたい事があるのかも。それとも、これもしらけた日常に意味なんてないと言いたいとか、そういうこと?
「世界の首都」。マドリードのバーで働いている男と少年が、ささいな口論から闘牛の真似をすることになり、少年が誤って刺されて死亡。
「白い像のような山々」。スペインに来たアメリカ人カップルのうち、男が女に手術を勧めて、女が拒否。
以上。嘘みたいでしょ?マジでそれで終わりなんです。理解できねえ。文学すげえ。
「橋のたもとにいた老人」。戦争が始まって、戦いを避難した老人が、世話してきた動物たちの行く末を案ずる。
僕が「何が言いたいのか分からん」と思った短編もそうですが、それ以外のものも、基本的に「作者が言いたい事」みたいなものは、僕には見えにくかったです。
最低限の必要な事実しか書いてない乾いた文章なのです。でも、実はそこがいわゆるロスト・ジェネレーション文学とか、ハード・ボイルドというやつなんじゃないかと、今回読んだ段階では思いました。ある話があって、その背景に「こういうメッセージを伝えたいという作者の意図がある」と考えるのは、僕らが普段イヤというほど目にしている宣伝のコピーや、分かりやすく観客に寄せてある娯楽映画やポップスの歌詞などであって、
ヘミングウェイは彼自身の見解を伝えたいんじゃなくて、読んでる人自身で考えろ、と言いたいのかも。
それが正しい解釈なのかはまったく自信がないんですが、そういうふうに「考えさせられた」という意味では、ノーベル文学賞を取った『老人と海』より、この短編集に収められた小説群の方が、ロスト・ジェネレーション文学として僕には好ましく感じられました。内容はそれぞれですが、基本的には虚無感を扱った小説が多いのかな?もしかすると、ヘミングウェイ自身が、生きているとどうしても付きまとってくる虚無感と戦っていた人なのかも知れません。
淡々と写実的に描かれるこの文体は、ハードボイルドですらあると思います。最近は小説だと楽でアホなものしか読んでませんでしたが、たまに文学を読むと自分が高められる感じがしていいですね。逆にいうと、本を読まないとどんどん馬鹿になりそうで怖い…。ロックも好きだけど、
バルトークを聴くと「ああ、レベルが段違いだわ、こういうの聴いてないとすぐにレベル落ちちゃうんだろうな」と感じるのに似た感覚…例えが下手ですね(^^;)。