
アンデルセンが書いた童話をすべて収録した岩波文庫の第3集です。虫プロ制作の
アニメ『アンデルセン物語』の中で僕が感動した話「がんばれママ」の原作が載っていたので買いました。この第3集は、僕が知っているような有名な話は収録されていませんでした。そうそう、この文庫、挿絵も入っているのがなかなか良かったです(^^)。以下、自分の中に何かが残った話だけ抜粋して感想を(^^)。
まずは例の母親の話、
「ある母親の物語」。たった11ページですが、
これは子どもがいるなら、幼いうちに何度も読み聞かせるべき。この話を知っていたら、虐待でもしない限り、親を親とも思わないような子どもには絶対にならないんじゃないかと。死神に我が子を奪われた母親が、子どもを取りかえしに行く途中の湖で、湖に目を奪われるシーンが強烈。湖に「お前のその真珠(両目の事)をくれたら、この湖の向こうまではこんでやろう」みたいに言われるのですが、母親は子どもを取り返すために自分の両目を差し出すのです、ああ…。。
そして、病弱で苦しみながら生きている子どもと、死んであの世で幸せに暮らすのとどちらが良いのかという死神の問い、ここには(少なくともかつての)西洋の死生観が出ていると思いました。日本だと死はマイナスのイメージで最後にあきらめて受け入れるもの、キリスト教だと死は救いで場合によっては憧れるもの、なんていう世界観があるそうです。僕は「キリスト教だからと言って死に憧れるなんてありえないだろ」と思っていたのですが、この物語の場合、苦しい生より救いの死を選択しています。これは宗教的というか哲学的というか、実はものすごい深い問いが根底にあるんじゃないかと。というわけで人間の死をどう受け入れるかで悩んでいる人は、「ある母親の物語」をぜひ一度読んでみて欲しいです!
「おとなりさん」。いや~この話はちょっと意味が分からなかった(^^;)。でも、いかにも意味ありげだったので、強引に解釈してみました。お隣さんというのはいろんな生き物の事で、カモやハトやスズメやバラや人など、同じ生存圏にいるものどうしのこと…かな?そのメインはスズメと薔薇で、スズメのお母さんは薔薇をボロクソに言うのに、薔薇はスズメを愛でます。そして、「美しいというのが何か分からない」という母スズメは人に軽く見られてるのに、薔薇は人に美しいと言われます。母スズメは子どものためにエサを取りに行ったところで、人につかまって、色々あった結果死亡。瀕死のスズメのお母さんをかわいそうと思った薔薇はかくまおうとしまいますが努力空しくダメ。スズメの子たちは母がいなくなって飛ぶ練習をしますが、家を守っていたスズメは火事にあって死亡。薔薇は特に何もしてないけれど豪邸に植えかえられてまたも美しく咲きます。以上。…う~ん、要するに、心が美しい者は見た目も美しく、また周りに愛されるが、そうでない者はむごい運命が待っているという事でしょうか。もしそうだとして、子どもがそう理解するのはたぶん無理だぞ。。
「影法師」、これはヤバい。。学者の影がいつの間にかなくなって、しばらく経つと他の影が育ってきた。何年もしたら、昔消えた影が帰ってきた。学者はなかなか芽が出ず、影法師に誘われて一緒に旅に出る。いつの間にか影を「あなた」と呼ぶようになり、影からは「君」と呼ばれるようになり、立場が逆転していく。影法師は王女と仲良くなり、学者は影から「あいつは自分が本物の人間だと思ってるんだから始末に負えない」と言われ、王女と影の結婚の際には、学者はとうに殺されていた。
なんだこのシュールな話は。アンデルセン、ヤバすぎる。 「カラーの話」もシュールでした。カラー(多分、学生服の襟につけるあれの事)が主人公で、彼はアイロンや靴ベラやハサミに求婚するものの断られます。そのうち、求婚がしつこかったのでハサミに深く切られ、製紙工場に回収され、紙になってしまいます。その紙が、いま読んでいる本のページ…
アンデルセン、絶対にラリッてるな。。 「ある物語」。牧師が教会で「悪い事をすると死後に地獄で永遠に焼かれ続けますよ」と説教をします。そんな時に妻が死んでしまい、妻の亡霊が牧師に「永遠に焼かれ続けるほどの罪人の髪の毛を持っていかないと、私が永遠に焼かれ続ける事になってしまいます」と訴えます。それは大変d菜と牧師は罪人を探しますが、極悪だと思っていた罪人ですら何かしらいい所があり、永遠に焼かれ続けるほどの悪人がいません。夜明けが近づき、牧師は神に必死に訴えます。「どうぞ、人間というものをお知りになって下さいませ。どんな悪い人の中にも、神様の一部が宿っているのです。そしてそれは地獄の業火に打ち勝って、それをなおす事が出来るのです!」。その時、牧師は妻にキスをされて目覚めます。神様が見せた夢だったのです。
こういう話を読んでいたら、少し過ちを犯したからといって、その人のすべてが悪のように叩きまくる今の異常な風潮は改善されるんじゃないでしょうか。
罪に匹敵する罰だけ受ければ充分、今はオーバーキルし過ぎというか、少しの事で叩きすぎだと思います。子どもだけじゃなくて大人もアンデルセン童話を読むべきだ!
「もの言わぬ本」。ある青年が死に、彼が愛していた本が棺にしまわれます。各ページには花が挟んであって、それぞれの花にはこの青年の想い出が詰まっています。学生時代の親友との思い出、異国の地でのお嬢さんとの思い出…この青年はこの本の上に頭を乗せて眠りにつき、そして忘れ去られる。
「年の話」。これは季節を比喩的に話していく物語ですが、要するに冬がすべてを死滅させても、次に一巡してまた春が来る、みたいな。そして、その死の象徴の冬を、春が来ても「死んだように見えて死んじゃいない」「春の後見人」と説明しているのがすごい。これって、アンデルセンの死生観なんでしょうね。比喩として、
人間の死も死んでいるように見えるけど、次の生命の後見人であって、季節のように循環していると表現したかったんじゃないかと。この話を、子供がそのように理解するのは難しいと思うんですが、大人だったらそう読めてしまう…のは僕だけなんだろうか。
「上きげん」。霊柩車の御者が主人公の話で、彼がそれぞれの墓に埋まっている人の生涯を説明していきます。ここは金持ちで、家じゅうを飾っていた人が埋まっている。ここは、生涯をずっと研究のために費やした人が埋まっている。ここは生きている間はけちだった人が埋まってる。そしてこの御者は、死んだら墓碑銘に「上機嫌な男の墓」と掘ってくれ…みたいな。つまりこれ、死んだ瞬間い自分の人生をどう振り返るか、これを考えさせる話だったんじゃないかと。
「柳の木の下で」。とても仲のいい小さい男の子と女の子が、柳の下で遊んでいました。でもある日に女の子が引越しする事になり、ふたりは離ればなれ。成人して男の子は職人になり、女の子は歌手になります。ある時、青年は彼女に会いに行って彼女に愛を告白しますが、彼女は「あなたは私の大事なお兄さん」と言ってそれを受け付けません。青年は寒い冬の中、歩いて幼い頃に一緒に遊んだ柳の木のある故郷まで歩いて帰り、その木の下でゆっくりと休んでかつての幸せだった時の事を思い出して眠り、そのまま死んでいきました。ああ…
この話の逆が、
「イブと小さいクリスティーネ」でした。やはり仲のいい小さい男の子と女の子が結婚の約束をして、離ればなれになって、女が結婚をして…という話でした。でも結末が逆で、今度は別の男と結婚して贅沢三昧だった女の方が没落して不幸の死を迎えるというもの。
「あの女はろくでなし」。ある男の子が、えらい町長さんから「君は見どころがあるが、君の母親は酒飲みのろくでなしだ」と聞かされます。男の子の母親は、男の子を食べさせるために一日中洗濯をしている洗濯女でしたが、過労で倒れ、そして死んでしまいます。町長は気に入っていた男の子を引き取って育てる事にしますが、やはり死んだ母親の事を悪く言います。でも、この母親を知っているおばさんは、「やさしかったお母さん」と嘆く男の子に、「あの人は天国の神様にも愛されるぐらい立派だった。世間の人には勝手に言わせるがいいさ」と伝えます。
アンデルセン童話の完訳全集の3巻は、
物語の真意はどう考えたって大人じゃないと理解不能なんじゃなかいか、いや、大人だってボ~っとしてる人は理解できないんじゃないかという物語のオンパレード。そして、教訓的な話というよりも、人生観や死生観、それにキリスト教的な世界観が語られているものが多いと感じました。
「ケチな人は損をする」とか、そういう事が書いてあるんじゃなくて、人の生をどうとらえるか、そしてどう生きるか、それが書いてある物語が多かったように思います。アンデルセン物語、深いです…ちょっとぶっ飛んでるけどね(^^)。。