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心に残った音楽♪

おすすめCDの紹介のほか、本や映画の感想などを (*^ー゜)v

 

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『Art Blakey & The Jazz Messengers / A Night in Tunisia』

Art Blakey Jazz Messengers A Night in Tunisia 邦題は『チュニジアの夜』、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ、1960年の録音です!この時にはウェイン・ショーターがメッセンジャーズに参加してるんですね(^^)。ジャズ・メッセンジャーズは、有名な50年代の泥臭いファンキー・ジャズ時代より、ショーター参加の60年代の方が僕は好きです(^^)。

 プロ野球やメタルバンドって、「あの選手があっちのチーム行った」みたいなのが多いじゃないですか。ジャズだとスモール・コンボがそんな感じで、メッセンジャーズはその最たるものです。このアルバムは、リー・モーガン(tp) とショーター(ts) の2管です。あとは、ボビー・ティモンズ(p)、ジミー・メリット(b)、ブレイキー(dr)。アレンジよりも演奏を堪能してもらうバンドだったようで、この頃はショーターよりも突貫小僧のリー・モーガンがカッコいい!リー・モーガンって、僕の中の印象では完全にダイナマイト・キッド、むずかしい事やメンドクサイ事は嫌いでパワーがすごい、でも実際にはパワーだけじゃなくてめっちゃ技術がある、みたいな(^^)。

 あと、このライブアルバム、ドラムがすごい演奏をするんですが、演奏だけじゃなくて音の迫力も凄かったです。僕はこういうライブなドラムの音が好きだなあ。ロックでもジャズでも、レコードとなるとドラムがやたらオンですが、実際にライブで聴くと、もっと「バシャーン!」みたいに響いてるじゃないですか。このレコードぐらいライブな音の方が勢いを感じて絶対にいいと思うんですが、その勢いが爆発してるのが1曲目「チュニジアの夜」、これは完全にブレイキーの爆発するドラムを聴かせる演奏でした。

 ショーター加入時と言っても、まだどこか『モーニン』の美感をひきずっているように感じるのは、入ったばかりのショーターにまだ発言権がなかったのか、ボビー・ティモンズの色が強いからなのか。でも、間違いなく初期よりも爆発力のあるメッセンジャーズの演奏と思います(^^)。


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小説『チャタレイ夫人の恋人』(完訳版) D.H.ロレンス著、伊藤整訳

Chattery fujin no koibito_Kanyaku 1928年に発行された、イギリスの作家D.H.ロレンスの小説です。D.H.ロレンスも『チャタレイ夫人の恋人』も、僕は名前だけは知っていて、てっきり純文学の有名作品なのかと思っていたんですが、世間的には猥褻で発禁となった事で有名になった小説みたい…そんな事を聞いてしまったら読まないわけにいきません(^^)。というわけでトライ!そうそう、僕が読んだのは、わいせつ箇所も伏字にせず完訳した新潮文庫版です。
 先に、発禁となったわいせつ表現部分に関して書いておくと、AVだって電車に乗ったままスマホで見られる現代からすると、まったく大したもんじゃないです。むしろ、性愛を(精神性や文学表現ではなく)野生として素晴らしいものであると表現しようと努めた大した作品と思えました

■あらすじ
 イギリスの資産家であるクリフォード・チャタレイに嫁いだチャタレイ夫人コニー。しかし夫が第1次世界大戦に従軍した折に性的不能という外傷を負ってしまう。、コニーは西洋のブルジョワ思想の張り付いた夫に嫌悪感を覚えるようになっていく。そしてコニーはチャタレイ家が雇っている森番の男メラーズと肉体関係を持ち、これまでにない高揚感に見舞われる。元軍人であるメラーズの生き方に感化されていくコニー、戦争や家人との不和で厭世観を持ち、人に触れないで生きて行こうとしていたメラーズ。ふたりは…

■猥褻文学ではなく、実存を主題とした見事な思想書に思えた
 読む前はあまり期待していませんでしたが、見事な文学作品でした!なによりテーマが素晴らしかったです。主題は恐らくふたつ。ひとつは、ギリシャ哲学以来の西洋の伝統的思考法である、精神と肉体という二分化した考え方に対する異議申し立て。もうひとつは、そこからひっぱってきた資本家と労働者の対立図式にみえる資本主義社会の中のブルジョワジーに蔓延していた思想のまずしさ。これを重ね合わせる事で、物語が展開し、その展開に合わせて著者の考えをコニーやメラーズが代弁していきます。

■理屈ばかりで身体を失った不能な文化への批判
 まずは、イデア偏重で理屈っぽくなり過ぎた19世紀の西洋思想への批判。これはクリフォードが象徴していて、彼の振る舞いや台詞に溢れています。例えば、「人生の全問題は、統合的人格というものを、長年の統合された生活によって、築き上げる事になるのではないかな?」(p.79)など。クリフォードだけでなく、この作品に登場するブルジョワは似たような考えを共有しています。「自分の肉体のことに気づいた瞬間から、不幸というものが始まるのよ。だから文明というものが何かの役にたつならば、私たちが肉体を忘却することを手伝ってくれるものでなければ」(p.132)。イデアは大事ですが、でも生命は身体に宿っているのであって、イデアや精神だけを取り出して肉体を軽視する事は違うんじゃないか…ブルジョワ思想に対する嫌悪感となって、チャタレイ夫人にあらわれます。「完全な生活というものは(中略)習慣的な親密さというものに基礎を置いていた。だがそれがまったく空白であり虚無であると思われるような日があった。それは言葉、ただの言葉にすぎない」(p.88)。
 これって、ギリシャ哲学やキリスト教以降の西洋の思想がずっと引きずってきたレアールとイデアールという2分化という物の見かたの悪しき伝統で、それが覆され始めたのがまさに20世紀初頭の西洋思想の前線であった気がします。哲学で言えば実存主義がそれですし、『チャタレイ夫人の恋人』と同じイギリス文学で言うと『白鯨』あたりがそれ。この時点で、小説『チャタレイ夫人の恋人』はポルノや猥褻の書などではなく、見事な実存主義文学のひとつだと思いました。

■身体の復権へと踏み込むアウトサイダーまたは先駆者
 ではその実存とはどこに着地するのか。『権力への意思』を書いたニーチェなら前へ進もうとする生命そのものというかもしれないし、超うしろ向きなサルトルなら「対自存在は空虚」なんていうかもしれませんが、D.H.ロレンスの場合は性。実存の着地点がセックスで良いのかというとそれだけではない気もしますが、実は実存の着地を性にみた文学者って少なくないんですよね。サー・ジュリアン・ハックスリもそうだし、また生物学では種の目的は自分の分身を残す事(=セックス)と見ていますし。
 ブルジョワジーが理屈ばかりの不能者(夫が性的不能である事はメタファーなんでしょう)に映るコニーは、野性的な森番メラーズの肉体を偶然に見て、肉体的な衝撃を受けます。「美の材料でも美の実体でもなく(中略)一個の生命の暖かい白い焔。それが肉体なのだった」(p.118)。
 コニーは理念ばかりを語る不能者にますます嫌悪を募らせる一方、生命力あふれるメラーズにのめり込んでいきますが、コニーもメラーズものめり込みつつも躊躇を覚えます。その理由は、「恋愛が悪いのでもなく、セックスが悪いのでもなかった。悪いのは、あの向こうの方にある、邪悪な伝統や悪魔的な機械の騒音だった。機械的で貪欲なメカニズムと、機械化された貪欲な世界の中に(中略)騒音を立てる巨大な邪悪物が横たわっていて、自己に合致しないものすべてを滅ぼそうと待ちかまえている」(p.215)から。

 そして、チャタレイ夫人とその恋人は、互いの離婚やら社会的因習やらと決別しなくてはいけない困難を感じながらも、一歩を踏み出していく…みたいな。さすがロマン主義から実存主義にかけてという文学全盛の時代に生きた小説家らしい文体で書かれるふたりのドラマは、読んでいてむっちゃくちゃ引き込まれるものがありました(^^)。

■20世紀初頭の西洋文学の王道にして傑作!
 読んでいて思い出しましたが、そういえばコリン・ウィルソンが『アウトサイダー』か何かで、D.H.ロレンスの思想を「性のアウトサイダー」みたいな表現で書いていた記憶が。性描写が当時にしては入念なのは、性や身体という実存の素晴らしさを強調するために必要なことであって、これだけの実存主義文学を「わいせつ」の言葉で発禁処分にした当時の社会はまったく無粋というか、ロレンスがいうように真実から離れたところで凝り固まっていたのかも。これを官能小説と感じる当時の文化の読解力のなさが悲しいっす。
 先に観た映画『チャタレイ夫人の恋人』91年版は完全にポルノでしたが、原作は見事な文学。しかも、読んで面白いかどうかなんていう娯楽作品でも、ましてポルノでもなく、20世紀前半の数多くの西洋文学が扱った人間の主題に真正面から挑んだ正統派の小説と思いました。これは素晴らしい実存主義小説、素晴らしかったです!


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映画『チャタレイ夫人の恋人』1991年版 フランク・デ・ニーロ監督、ランバ・マル主演

Chatterley Fujin no Koibito_1991 タイトルを知っていたので文芸作品かと思って観た映画です…が、これも『エマニエル夫人』系のピンク映画でした(^^;)。というか、低予算に見えたもんで、ほとんどVシネマといっていいかも。

 性的不能になってしまった大金持ちの夫に満たされない妻。そして妻は、夫が雇っている庭師と肉体関係になっていく、みたいな話。面白いストーリーの中に色っぽいシーンが織り交ぜてあるのではなく、色っぽいシーンを繋いでストーリーなんておまけ、みたいな作りだったので、話としては面白くなかったです。でも主演したランバ・マルという女優さんが、ムッチャクチャスタイルの良い美人で、最後まで観てしまいました(^^)。ランバ・マルという語感から、どうしても「ザクとは違うのだよ、ザクとは!」というセリフが頭の中でこだましてしまう僕ですが、この映画でランバはラルだけではないとアップデート。ちょっと歳がいっている感じもしましたが、逆にそれがエロかった!女は30越えてからです。

 この映画を観た後、「『チャタレイ夫人の恋人』ってマジでこういう話なの?たしか文芸作品だよね?」と疑ってしまい、原作小説も読んだんですが、話の筋がちょっと違っていて、オチに至ってはまるで違う、みたいな。これじゃ原作が訴えたかったことなんて何も残ってないと思ったんですが、何度も映画化されてきたみたいですし、原作通りじゃつまらないという考えがあったのかも。それにしても本旨まで変えてしまうと、それならそもそも原作を使う必要はないと思っちゃうんですよね。つまり、『チャタレイ夫人の恋人』というネームバリューを利用して作られたポルノ映画ではないかと。

 これ系の映画女優というと、『エマニエル夫人』で主演したシルヴィア・クリステルが真っ先に思い浮かびますが、なんと彼女主演の『チャタレイ夫人の恋人』もあるみたい。でももう観る気にはなれないな…。
 まだ家庭にビデオが普及していない頃だと、ポルノ映画は一定の需要があったんでしょうね。昔は繁華街に行くとポルノ映画館って絶対ありましたし。家庭にビデオデッキが普及した後の91年になってもこういう映画が作られていたのは驚きですが、つまりは完全なポルノではなく、もしかすると有名なモデルか女優さんのお色気作品ぐらいの位置づけなのかも。それぐらい、ランバ・マルさんという女優の魅力だけに頼った映画に見えました。ボロクソに書いてしまいましたが、マルさんは一見の価値あり。そして、原作の『チャタレイ夫人の恋人』は、映画と違ってとんでもなく素晴らしい実存主義小説だったのですが、その話はまた次回!


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映画『エマニュエル』 ミア・ニグレン主演

Emmanuelle4.jpg 1984年公開のフランス産ピンク映画です。この映画、けっこうエロいシーンがいっぱいあるんですが、昔は普通に夜9時からのロードショー番組で放送されてました。大らかな時代だったんですね。で、放送された翌日から、放送を録画したVHSがクラス中に出回ったという(^^;)。で「雨に濡れて透けたおっぱいがエロい」とか「いやいや、人のセックス見て興奮した時のエマニュエルの表情がヤバい」みたいな話で盛り上がったのは中学生ならではでした(^^;)。

 この映画、一世を風靡した映画『エマニエル夫人』シリーズの4作目だそうです。だからオリジナルのタイトルは「Emmanuelle 4」。歳をとって自信を無くしたエマニエル夫人(シルヴィア・クリステル)が美容整形で若返る(ミア・ニグレン)というもの。で、エマニエル夫人の恋人はそれと知らずに、若返った彼女を別人と思って口説いてしまう、みたいな。

 ストーリーは上に書いたのでほとんどすべて、あとはオマケみたいなもの。見どころは無論ストーリーなどではなく、10分か15分おきに挟まれるヌードやエッチなシーン。僕的には世界的にヒットした『エマニエル夫人』より、あまり知られていない『エマニュエル』の方が圧倒的に上の評価ですが、理由は主演女優がすっごい美人だから…やっぱり内容ではなくてそこを見てるという(^^;)。
 子どもでも簡単にセクシービデオが見えるようになった今、こういうピンク映画って需要がなくなったんだろうな…と思いきや、意外や意外、90年代になってもまだ作られていた事を知った時には驚きました。その話はまた次回(^^)。


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映画『プライベート・レッスン』 シルヴィア・クリステル主演

PrivateLesson.jpg 僕が子供の頃はインターネットなんてない時代。レンタルビデオだって子供だからアダルトなものは借りられず、エロい物を見たいならヌードの写った雑誌グラビアを眺めるか、テレビのロードショー番組でたまにやるエッチな映画を待つかでした(^^;)。この映画は、そういうテレビ放送で見た映画の一本で、81年制作。70年代から80年代前半って『エマニエル夫人』とか『青い体験』とか、こういうAV代わりみたいな映画がそれなりに作られてましたが、これもそいう作品の中のひとつでした。主演は映画『エマニエル夫人』で主演したシルヴィア・クリステルでした。

 運転手やメイドがいるお屋敷に住んでいる片親の少年フィリー。そこに新しいメイドのマロウが現れる。女性に興味を持つ年頃になったフィリーは、ついついマロウの部屋をのぞき見してしまう。そのうちに性の手ほどきを受けるが、恥ずかしくて逃げだしてしまう始末。一方、運転手はこの家の財産を狙っており、メイドと少年の関係を利用し、家の主人がいない間に少年を罠にかけ…

 エロだけどコメディタッチなので、暗くなくて爽快感がありました。このへんがフランス映画『エマニエル夫人』とアメリカ映画『プライベート・レッスン』の差かな?執事がお金をだまし取るスティングとか、それを逃れるオチとか、エロだけじゃなくて映画としてもなかなか面白かったです。それでも子どもの頃に観たもんで、男の子が年上の女性に性の手ほどきを受けるという設定は「おお!」と燃えました(^^)。露骨にセックスするAVより、いけない事をしてるというドキドキ感があったなあ。

 そんな事以上に魅力的だったのが、アメリカの富裕層の豪邸や暮らしぶりがフィルムに記録されていた事でした。運転手やメイドの住む部屋が本宅とは別にあって、プールがついていて、だだっ広い家にはピアノでも何でもあって…こういうのって知識としては知っていましたが、実際の光景を目にすると圧倒的、「すげえな」と思いました。1次大戦がはじまる前の帝国主義の時代のヨーロッパ富裕層の生活って、こんな感じだったんだろうな、みたいな。こういうのって植民地制度やアンフェアなトレードなどの名残で、色んな犠牲の上に成り立った生活なので、自分がこういう生活を目指したいとは思いませんでしたが、それでもすごいと思ったのも確か。もしこういう時代のこういう家に生まれたら自分はどんな生活を送ったんだろうな、な~んて想像して楽しくなってました(^^)。

 オランダ出身の女優シルヴィア・クリステルって、えらい才女だったらしいですね。それなのになんでこういう映画ばかりに出てるんだろうかと思ったら、9歳の頃にレ〇プされた経験とか色々あるらしいです。昔のヨーロッパやアメリカのミュージシャンや女優の話を聞くと、けっこうレ〇プ体験やら謹慎操艦体験が多いのにびっくりします。この映画だったかどうか忘れましたが、なんでも彼女は映画の演技指導をするために、共演した未成年の少年にセックスを教えた事もあるとか何とか。それって、映画よりエロくないかい(^^;)?


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映画『エマニエル夫人』 シルヴィア・クリステル主演

EmanieruFujin.jpg 1974年公開のフランス映画です。エッチな映画で、フランスでも日本でもピンク映画の社会現象を起こしたそうですが、監督がファッション・フォトグラファーで主演がフランスの一流ファッション誌のモデルという事もあったのか、若い頃に観た時は、なんとなく格調高く見えもしました。

 フランスの外交官の奥さんが、旦那の赴任先のタイでレズやったり、飛行機のトイレで情事に耽ったりと性に溺れていく映画…と思って子供の頃は観てました。原作がある物語だし、もう少し深いテーマがあったのかも知れませんが、中学生だった僕にはそれは分からず。でも作りがピンク映画だったのはたしかで、ブルース・リーの映画が15分おきに確実に格闘シーンが入るように、この映画も定期的にエロシーンが挟まれていました。でも意外とエロいとは感じず(成人指定映画ではなかったので、あまり過激な描写は出来なかったのかも)、初めて見た当時(僕が初めて見たのは80年代初頭)ですら、雑誌のグラビアの方がよっぽど燃えるな、ぐらいな感覚。

 エロより強く目についたのは、当時のヨーロッパ人の持っていた「俺たちは特別」とでも言うような嫌なモラルでした。フランス人外交官というヨーロッパの特権階級が、東南アジアの女性を奴隷のように使って性的なマッサージをさせる。タイの貧民街を気遣いもなくオープンカーに乗って平然と通り過ぎる。大航海時代からの植民地政策や帝国主義で世界大戦を引き起こしたヨーロッパ人の特権意識をまざまざと見せられた気がしたんですよね。
EmanieruFujin_pic1.jpg 貧民街を外人がオープンカーで突っ込んでいくなんて事をしたらボコボコにされても文句は言えなさそうなのに、ビビりもせずに突っ込んでいくところに、アジア人に対するヨーロッパ人の自信というか傲慢さというか、そういうものを感じました。良いかどうかは別として、相手を見下せる、威圧できるというのはたしかに武器となる能力ではあって、相手を屈服させることが正義である状況では、これもひとつの美徳だったと思うんですよね。ヤクザでもビジネスマンでも、この能力は今でも価値として認められているのではないでしょうか。
 こういった鼻につく白人の特権階級意識を感じさせるシーンが度々出てくるんですが、なんとなく制作者ですらそれに気づいていない気がしたんですよね。第2次世界大戦が終わった後になっても戦勝国となった国の白人からはこの意識がどうしても抜けない、みたいな。リベラリストな僕はこれが気になって仕方なかったです。

 この映画、ピエール・バシュレの音楽(特に主題歌)が最高とか、70年代のタイの風景とか、映像美とか、いま見ても色々と見どころのある映画と思います。僕が不快に思った部分だって今から見れば貴重な資料。ただ、エロい物が見たいだけだった中学生の僕には、色々と不満の残る映画だったな、みたいな(^^;)。。


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書籍『遠方より無へ』 三善晃

MiyosiAkira_Enpou yori mu he 三善晃さんが書いたエッセイです。僕は、三善さんの音楽をもっと理解出来たらと思ってこの本を手にしました。ほとんどのエッセイが音楽に関する事なんですが、実際の作曲技法とかの追及はほとんどなくって、本当にエッセイ本でした。

 作曲家の武満徹さんのエッセイなんかもそうですが、戦後の50年代~60年代を生きた日本人作曲家の人のエッセイって、表現が曖昧で詩的です。たとえば、「○○さんのピアノの音は、果実の種のように芯に向かって集中する」とか、そういう表現をするんです。音楽家なら、そういう抽象的で主観的な表現は避けそうなものなのに、この時代の作曲家はこういう表現を好む人が多い印象をうけます。これって、同世代の日本の文壇の傾向と関わりがあるんでしょうか。考えてみれば、日本の詩や文学も、こういう主観的でどうとでも取る事が出来るようなあいまいな表現を好みますよね。ジャンルを超えた人の対談とかで、詩人や小説家が「○○さんって、どこか霧の先を行く人という印象があるんです」みたいにいう事がありますよね、僕はああいうのは、分かってない人の逃げ口上に聴こえてしまうので、ちょっと苦手なのです。。
 一方で、やっぱり大作曲家だなと思う所もありました。武満さんの曲「地平線のドーリア」を、ひと言で「ドミナントがある」なんて表現してしまうところは、言われた瞬間に、ああなるほど…という感じでした。同じ事が、古典派音楽への憧れ、ストラヴィンスキー評などの中に感じる事が出来ました。ディープな音楽論にしないのは、あくまで作曲や音楽を学んでいない人でも読めるようにしているから、という面もあるんでしょう。
 
というわけで、三善先生の音楽を学びたいという人が読んでも、肩透かしかも。でも、あの時代の日本人作曲家に共通している空気感が伝わってくるところは当時の時代思潮が感じられて、なかなか貴重な体験が出来た本でした。


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『Ensemble PVD / 響層Ⅱ』

Kyousou2_EnsemblePVD.jpg 藤井宏樹指揮、Ensemble PVD 合唱のCDで、日本人作曲家の書いた合唱音楽が収録されています。三善晃先生の代表作のひとつ「トルスⅡ」目的で買ったCDでした。そして、三善先生以外の現代日本の作曲家の曲も、みんな凄くて鳥肌ものでした。いやあ、現代の日本の声楽曲って尋常じゃない素晴らしさだと常々思ってましたが、このCDはそれを証明したような凄さ、ゾクゾクきました!

 ・三善晃:トルスⅡ
 ・鈴木輝昭:詞華抄
 ・鈴木輝昭:情燐戯画
 ・鷹羽弘晃:ブルレスカ


 トルスⅡ」は、萩原朔太郎の詩を合唱音楽化したもの。混声合唱、ピアノ、電子オルガンの作品で、電子オルガンは弦楽のような音色が選ばれていて、ぼんやり聴いていると弦楽と間違えるかも(僕がそうでした^^;)。。音列を使った作品ですが、僕は和声の色彩感と、声とピアノの絡み、これにやられました。いやあ、三善さんの曲って、技法のための技法じゃないんですよね、聴いていてグサッときます。そして、この透明感がヤバい。。

 鈴木さんの作品ふたつも素晴らしい曲でした。三善さんに比べると比較的オーソドックスな和声ですが、それはミニマルっぽい所がけっこうあるので、その辺の配慮もあるのかも。メリスマティックな声のパートが前に出てきたりもありましたが、仕掛けはそれほど難しくなくて、どちらの曲も聴きやすかったです。50~60年代の硬派な現代音楽ではなく、技法だけ要所で頂戴する感じですが、こういうのもいいですね。面白かった!

 鷹羽さんという作曲家は、このCDではじめて知りました。「ブルレスカ」は混声合唱とピアノのための作品。ピアノは伴奏よりもっと重要な役割で、かなり声とのからみが密で、時にはピアノの方が前に出る事もあります。そしてこれもかなり聴きやすい作品で、技法的な挑戦や難しい事をしてるわけではないんですが、すごく現代的なサウンド。この曲の中のいくつかの楽章は、分析してみたいとおもったほど興味を惹かれました

 いやあ、知らないけど素晴らしい作曲家がたくさんいて驚きです。自分の知っているものばかりに手を出してると、なかなかこういう出会いは出来ないので、知らないプレイヤーの作品に手を出すというのも必要ですね(^^)。日本の現代の声楽作品のレベルの高さを知る事が出来た素晴らしいCDでした!


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『三善晃:唱歌の四季~三善晃の2台ピアノ伴奏による合唱作品集~ 山田和樹指揮、東京混声合唱団』

MiyosiAkira_Shouka no siki 晩年の三善晃先生は合唱曲の創作が多くなり、器楽曲が減りました。チェロ協奏曲やオーケストラ作品「レオス」に打ちのめされた私としては残念な限り…かと思いきや、合唱曲がとてつもなく独特な世界です。

 このCDは、2台ピアノの伴奏による合唱曲が3曲入っています。1曲は唱歌のアレンジもので、残る2曲が「海」「レクイエム」という三善先生のオリジナル。三善さんは戦争体験からか、「人間はどう生きるべきか」というのを常に自分につきつけて生きた作曲家と感じますし、なにせ東大文学部卒業ですから、その思考に言葉が重要な道具になっていたのでしょう。レクイエムの詞なんて、「しかしやっぱり殺している」「お父さん、お母さん、時ちゃん、敬ちゃん、さようなら」「行かないで下さい皆さん、どうかここにいて下さい」ですから。「レクイエム」は「三善晃の世界」に入っていた管弦伴奏のものの方が個人的に好きですが、「海」は、フランス音楽が明らかに背景にありながら、それが日本音楽に聴こえる独特の世界観を感じました。

 年に1回、日本中高生の合唱コンクールの全国大会をテレビでも聴く事が出来ますが、小学校のママさんコーラスとは段違いのレベルの高い合唱に、これまた「これが学生の歌う曲なのか」と驚くほどの現代曲が平然と出てきます。その楽曲のレベルの高さたるや、その辺のクラシック・コンサートのはるか上を行くほどなんですよ。そこでほぼ毎年のように聴かれるのが三善先生の書いた曲です。三善先生以降、鈴木輝明さんや千原英喜さんなど、日本語を用いた素晴らしい合唱曲を書く作曲家が増えましたが、三善先生以降で日本の合唱曲の作風もレベルも変わったのではないかと感じます。そして、山田和樹さん指揮による東京混声合唱団、見事な歌唱でした!


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『三善晃の音楽』

MiyosiAkira no ongaku 三善晃先生は、作曲家として数々の傑作を残したほか、桐朋学園大学園長を務め、現代の日本合唱曲のレパートリー拡充にまい進し、戦後日本の現代音楽シーンにはかりしれない功績を残した人です。東大仏文科卒業のうえにパリ国立高等音楽院に留学という大天才、受賞歴なんて作曲レベルのものは多すぎて書き切れず、文化章クラスまでたくさんあるレベルの人です。あまりに私淑しすぎているもので、この大先生の事を僕なんぞがとやかく言うなんて無理。そんな三善先生のCDでひとつだけ買うとしたら、やっぱりこれではないでしょうか。CD3枚組、主に管弦楽曲や協奏曲が収録されています。ちなみにこのシリーズ、第4集まで続いておりまして、合唱編とか、室内楽編とか、色々あります。

 武満徹さんもそうですが、戦後の日本作曲界は、ヨーロッパの作曲技法の最前線を学びながら、それを丸写しするのではなく日本的な響きに見事に消化した人が少なくありません。またその音楽が、単に音の響きだけでなく、独特な思想と重ねられているものが結構ありまして、三善先生はその最たる例ではないかと思います。このCDに収められている「オーケストラのための夏の散乱」は標題音楽ですが、標題は宗左近の1行詩「現よ、明るい私の墓よ」というものです。この詩、宗さんが空襲で母を失った際に、炎の内側から自分の墓を透視した体験から生まれたそうです(宗左近さんは、東京大空襲の時に、自分が手を離してしまった事で母親を死なせてしまった経験があるそうです)。東大を卒業しながら、官僚にも役人にもならずなぜ音楽であるのか…音楽だけがあるのではなく、音楽と人生が重ねられてる部分と感じます。このCDの解説で、三善先生はこの曲の解説の最後に、「あの夏そのものが。今も私の中に散乱している。そして猶、なぜ生きているかを私は書かなければならない」と記しています。
 そして、こういうものが言葉だけでなく、音として説得力を持っているものだから、私の心に刺さります。個人的には協奏曲が背筋の凍る思いで、このCDに収録されている3つの協奏曲、そしてオーケストラ作品「夏の散乱」「レオス」は、いずれも驚異の音楽でした。

 三善先生に関しては、素晴らしい生徒さんなどが素晴らしい解説をたくさん残しているので、僕ていどの人間に書けるのはこれぐらいでしょうか。2軍3軍の選手がトップの批評なんてとても出来ないです。世界的に見ても戦後の芸術音楽の重要作品群、現代音楽を好きな方であれば、聴きのがしてはならない作品群と思います。


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TVアニメ『母をたずねて三千里』 高畑勲監督、宮崎駿レイアウト

HahawotazuneteSanzenri_TV anime 1976年制作の高畑勲監督作品です。このアニメをやっていた時、僕は幼稚園児。飛び飛びではありましたが、リアルタイムで見ていました。でも、より話を理解したのは、小学生(?)になってから、再放送を見た時でした。このアニメ、高畑勲監督がボス、宮崎駿さんが番頭という形で手を組んだ最後の作品らしいです。この作品の後、宮崎駿さんは『未来少年コナン』で監督デビューして独立していきました。

 19世紀末のイタリアの港町ジェノバ。多くの人が南米に出稼ぎに行く中、小学生の少年マルコの母親もアルゼンチンに出稼ぎに行くことになります。マルコは母親に会いに行くためにアルバイトをし、旅費を貯めてブエノスアイレスへ旅立つ。途中、旅芸人の一座に助けられたりしつつ、母親が行った親戚の家の扉を開けるが…

 まだ幼かった僕にとって、この物語が面白かったかというと…微妙。カッコいいヒーローも出てこないし、やっと見つけたバイトはクビになるわ、財布はすられてもう電車賃も残ってないわと、なんだか暗い話が多くて、見終わった後も何かすっきりしないし。キャラクターの作画もあまり好きじゃなくて、靴が丸っこかったり、幼少期の僕が警戒心を抱くには十分な変なひげを生やしたおじさんが出てきたり、生理的に受け付けないというか、なんだかPTA推奨みたいな嫌な絵だと思ってたんですよね。男の子だったので、キャシャーンみたいにもっと劇画タッチな絵の方が好きだったのかも。

HahawoTazuneteSanzenri_gifAnime.gif でもすごく惹かれたところがありました。それは背景画。いま見てもこのアニメで素晴らしいと思うのは、マルコが旅立つことになる前の、ジェノバの街並みです。坂と階段が多い石畳の港町で、アパートとアパートの間に洗濯ひもが渡してあって、窓には緑に塗った木戸がついていて、ロバが引く荷車があって、家に入ると中庭があって、細い階段を下りきると蒸気船が港に来ていて…この街自体が魅力的なのです。絵もものすごいきれい。僕はアニメのスタッフの役割分担ってよく分からないんですが、「場面設定・レイアウト」というクレジットからすると、これって宮崎駿さんが描いたんですよね、きっと。『魔女の宅急便』もそうでしたが、宮崎さんが描くヨーロッパの風景って、見ていて「あ、こんな素敵な町に住んでみたいな」と思わされるほどにワクワクしてしまいますが、その初体験が『母をたずねて三千里』だったかも。

 監督の高畑さん視点でいえば、これはアニメ版ヴェリズモなんでしょうね。幼い僕にはそういう事はまったく分かりませんでしたが、リアルだったのは確か。「ああ、この主人公の子どもは素直で可愛いね」と思わせる事なんてまったくなくて、母親が出稼ぎに行くと知ったら、裏切られたと感じたのか拗ねて笑顔も見せずに拗ねたりしますが、これぞリアリティ。今にして思えば、このリアリティがアニメではなく実際の世界を知る良い教養になってくれた気がします。昔のイタリアには旅芸人の一座がいた、南米のインディオにはポンチョを着る風習があった、ヨーロッパには石造りの家がある…そういう色んな教養を肌感覚で教えてくれた作品でした。教養って、それを知っていたらどういうメリットがあるとかそういうセコい話ではなく、広く色んなことを知っていないと色んなことを判断する基準すら持てないから、先に色々と知見を広げときましょう、みたいなものだと思うんですよね。僕が物心ついてから幼稚園を卒業するまでの数年間に見たアニメといえば、「ガンバの冒険」「フランダースの犬」「母をたずねて三千里」「サスケ」「宇宙の騎士テッカマン」…何かの得になっているというものでもないけど、もしこういうアニメを見ていなかったら、実に世間の狭い人間になっていただろうな、という気はします。
 僕にとっての高畑勲さん最高傑作は劇場版『じゃりン子チエ』ですが、『母をたずねて三千里』はその次に良い作品だと思っています。今見たら、もっともっと発見の多い作品なんだろうなあ。


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コミック『おもひでぽろぽろ』 作)岡本螢 画)刀根夕子

OmohidePoroporo_Comic.jpg 高畑勲監督のアニメ映画『おもひでぽろぽろ』ですが、観る前は笑えて泣けるオードリー・ヘプバーン主演映画みたいな作品だと思っていたのに、いざ見てみるとえらく深くてビックリしました。で、思ったのが、「これ、原作も本当にこうなの?」という事。高畑監督のリライトじゃないのかなあ…というわけで、原作も読んでみました!コミックは1987年に書かれたもので、単行本2冊分の短い作品でした。

 昭和40年あたりの小学5年生の女の子からみた日常が描かれていました。映画にはその子が成人した後に過去を振り返るという視点と、小学生時代から引きずってきた自分から一歩踏み出すというプロットがありましたが、コミックにそういうくだりは一切なし。つまり、映画でテーマとなっていた部分は、やっぱり高畑監督の後づけのようです。そうだよなあ。
 そして、映画でも扱われていた小学生時代のエピソードは、ストーリーはほぼ原作通りでした。でも映画ではノスタルジーを感じたのに、コミックはあまりそう感じませんでした。なんでだろう…映画で描かれた街並みとか、子どもの服装やちょっとした言葉遣いとか、そういうところに「ああ、昔ってこうだったよな」というものを感じたのかも知れません。だとしたら、それを見事に描いた高畑監督はおそるべしです。

 小学生時代に戦後昭和を過ごしたノスタルジック系マンガというと、露骨なところでは『三丁目の夕日』、そういう要素が入ったものでは『ちびまる子ちゃん』などがありますが、ああいう作品のひとつと感じました。僕は近い時代を生きたもので、読んでいて面白かったですが、まあでも読み捨てていくタイプの軽い漫画だったかな。『うる星やつら2』とか『銀河鉄道999』みたいに、原作よりも偉大になったアニメ映画ってありますが、僕にとってはこれもその一例…あ、でもコミックも悪くなかったです(^^)。


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映画『おもひでぽろぽろ』 岡本螢原作、高畑勲監督脚本

OmohidePoroporo_Movie.jpg 1991年公開、高畑勲が監督を務めたスタジオジブリ制作映画です。この映画、公開当時はまったく興味がなくて観なかったんですが、書籍『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』を読んでがぜん興味が出て、観てみました。

■あらすじ
 OLのタエ子(声:今井美樹)は、小学5年生の夏休みに田舎に行きたかったものの、その夢は叶わなかった。そこで有給休暇を取り、田舎生活をさせてもらう事にした。田舎暮らしは、小学5年生だった頃の自分を振りかえる事ともなった。父親に反対された演劇への出演、自分を好きになってくれた運動神経抜群の男の子、隣の席だった貧乏少年に言われた苦い言葉。田舎では、脱サラして農家になった年下の従兄弟トシオが色々と世話ををしてくれて…

■映画の主題とは
 これはなかなか難解な映画なのでは…。この映画の本筋をまとめるなら、小学生の頃に果たせなかった夢を叶える休暇旅行が、じつは小学生の頃から抱え続けている自分というものと出会い、それを超克していく旅行でもあった、みたいな感じになると思います。
 タエ子は、都会で仕事をしているけど情熱があるわけでもなく、傍観者のように自分から踏み込むことなしにぼんやり生きてきた存在です。旅行を思い立ったのは根拠があったのだと思いますが、その根拠は自分でもよく分かっていません。で、旅行の始まりから、小学5年生だった頃の自分がついて回ります。
 色々と過去を振り返り、田舎の生活や考えに触れ、最後に田舎暮らしを迫られたときに、あれほど「田舎はいい」と言っていたはずのタエ子は拒絶反応を示し、またも安全なところに逃げて傍観者を決めこもうとします。その時に、子どもの頃に差別しちゃいけないと言いつつ、実際には自分がいちばん差別していたのではないかという貧乏な同級生との思い出が重なります。結局タエ子は電車に乗って田舎を去りますが、途中で折り返して田舎に戻ります。そして、田舎から迎えに来た車に乗ったときに、ようやく小学5年生だった自分と別れる事になります。
 というわけで、過去の自分を見つめた旅で、過去の自分とは違う決断をしているのだから、自己認識とその超克の物語だ、と感じました。

■主題と見どころが違っていた
 でも僕がいちばん感じ入ったのは、そういう映画の主題ではなくて、映画の約半分を占める昭和40年頃(タイガースのデビュー前とビートルズの来日という描写から推測)が舞台の小学生の描写でした。その頃ぼくは生まれていませんでしたが、昭和の雑然とした木造りの家並みとか、「ちょっと見せろよ」みたいな男の子の言う口のきき方とか、給食や反省会などのクラスのルールとか、そういうものを見て「あ、僕が子どもの頃そのものだわ」と感じたんですよね。これがすごく懐かしかったです!
 漫画『三丁目の夕日』や『ちびまる子ちゃん』なんかもそうですが、子供時代の懐かしい昭和を思い出させる手法って、分かっていても胸が熱くなってしまいます。『おもひでぽろぽろ』には原作漫画がありますが、そちらは子供時代のことしか書いてません。だから、元々は昭和の小学生時代を思い出す事が主題だったんでしょう。

■面白くないけど実に深い、その理由
 というわけで、僕にとってこの映画は、「懐かしくてたまらないけど意味はない」部分と、「つまらないけど実に深い物語」のふたつから出来ているように感じられました。しかも後者は原作にないので、高畑さんの創作だったのではないかと。なんでこうなったんでしょうか。
 理由は、高畑さんの作家性にあったんではないかと思います。プロデューサーという立場から高畑さんや宮崎さんと共に歩んできた鈴木敏夫さん著『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』を読んだ限りで言うと、高畑さんは良いものを作ることに対する並々ならぬこだわりを持つ職人気質の作家で、しかも予算や納期を当たり前のようにオーバーしてしまう仕事人としては失格の烙印を押された人。前作『火垂るの墓』では、納期に間に合わずに重要シーンで絵コンテ状態のものを上映して、業界内では「仕事を任せられない人」の烙印が押されたそうです。そして、この映画の時点ではもういい年齢になっていました。
 この映画は、高畑さんが原作を選んだのではなく、原作の映画化の打診がスタジオジブリにあって、高畑さんはそれを拒否したものの宮崎駿さんや鈴木さんから執拗な説得にあい、ようやく引き受けたのだそうです。
 高畑さんはどう考えたのでしょうか。「引き受ける以上は、意味も価値もある映画にしたい」、こういう感情がスタジオジブリ以降の高畑さんのモチベーションだったのではないかと。高畑さんって、作品が完成するたびにアニメーターが大挙してやめていくほど仕事に厳しい人だったらしいですが(その中で最後までついていった人が宮崎駿)、その厳しさは自分に対してだってそうでしょう。それが、与えられた原作から映画を切り出す話を承諾した時に、これを自分が思うところの価値ある作品にまで引き上げようと考えた時に出来たある種のずれが、「面白いけど深い意味はない」部分と「つまらないけど意味が深い」部分というふたつを生み出したのではないかと思います。

■と、いうわけで
 懐かしさを売り物にしたエンターテイメント性を絡めているとはいえ、ほとんど文芸作品じゃないかと感じた映画でした。ただ、高畑さんの表現がなかなか職人気質で、けっこう文芸映画に馴染んだ人じゃないと理解しがたいかも。たとえば、終盤にタエ子が両手を握りしめるシーンがあるんですが、これは記号的には拒絶を示したものと思います。そして、その握り方に緩急がつくんですが、これは心境の変化を示したもの。こういう風に読み取ることが出来ないと、たぶんこのシーンは退屈だし、そもそも意味すら分からない気もします。というわけで、観る人を選びそうだし、政策上の理由から難解さが生まれてしまったようにも見えた映画でもありましたが、なかなか深い映画と思いました!


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書籍『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』 鈴木敏夫

Tensainosikou_TkahataMiyazaki_SuzukiTosio.jpg 世界に冠たるスタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫さんが書いた、ジブリの映画制作秘話です。鈴木さんは元々徳間書店に勤務して月刊誌『アニメージュ』の編集長をしていて、そこからジブリに移った人なのだそうです…なるほど、このパイプで徳間とジブリの繋がりが強いのか。そしてこの本、読んでいて心を動かされた事、人生の勉強になった点などがいっぱいありました。読んでよかった!ところで、僕が特に好きな作品は、宮崎さんの映画作品では『ルパン三世カリオストロの城』、『風の谷のナウシカ』、『魔女の宅急便』。高畑さんでは『じゃりン子チエ』なんですが、カリ城とじゃりチエに関する記載は無し。恐らくどちらも鈴木さんが制作に絡む前だったんでしょうね。

 この本を読んで特によかったと思ったところは、それぞれの映画制作の裏話なんてところじゃなくて、高畑さんと宮崎さんの仕事に対するプロフェッショナル意識を伝えてくれている所。読んでいて、「俺もがんばるぞ!」と、力を貰えたんです!

■宮崎駿さんと庵野秀明さんのプロフェッショナル
 最初の感動は、宮崎さんや高畑さんの仕事に対するプロフェッショナル度。宮崎監督は、映画「風の谷のナウシカ」制作にあたって、制作期間が短かかったから「6ヶ月間、元旦以外は土日も休みなしで働こう」といってスタッフ全員無休で突っ走ったそうです。そしてその期間、宮崎監督は朝9時から夜中の3時4時までデスクに向かって仕事をし続けていたそうで。
 こういう仕事ぶりは、ナウシカの制作にアニメーターとして参加していた庵野秀明さんも同様。アニメの仕事をしたくて鞄ひとつで東京に来た庵野さんは、宮崎さんと同じぐらい働いて、仕事が終わると仕事机の下で寝ていたそうです。
 雇う側の人間がこういう姿勢でいいとは思いませんが、リーダーや作る側の人間のメンタリティはこうありたいと思わされました。金のためだけに働いている人は、絶対にこういう姿勢は取れないはず。なぜそれを創るのか、それを作る事は何を果たす事なのか…こういうところまで進んだ人じゃないと、こういうメンタリティになれないと思うのですよね。これを読んで、「今日は正月だから」「今日は疲れたから」「今日は妻の誕生日だから」と、やるべき仕事が残っているのに簡単に休んだりやるべきことを先延ばししたりして、いつの間にか「人生最大の課題」ですら簡単に後回ししてしまうぐらい緩んでしまった自分を鞭打つことが出来ました。それだけでも読んで良かった。。

■高畑勲さんのプロフェッショナル
 高畑さんのプロフェッショナル精神は別のところ。いいものを作るためには徹底して考え付くし調べつくして、予算が超えようとも期日が過ぎようとも妥協しないんだそうです。映画制作がそれでいいかどうかはさておき、いい物を作るためには生半可では折れない姿勢、ここにもリスペクトしかありません。やっぱりどの世界でも頂点に立つ人は違うなあ。。

■鈴木敏夫さんのプロフェッショナル
 そして、プロデューサーの鈴木さんのプロフェッショナルぶりもものすごく勉強になりました。徳間書店に勤めたころの鈴木さんは「週刊アサヒ芸能」の記者になったそうです。そこでは、やくざへの取材で血まみれになったり、警察に呼ばれたり。あるいは、仕事をものにするため、博打好きのある宣伝部長と一晩いっしょにチンチロリンをやって10万円負ければ、話ぐらいはきいてくれるようになるんじゃないか、みたいな。つまり、仕事を成立させるために命がけなのですね。
 仕事の面で借金を出来る人ってすごいと思いませんか?例えば、円谷英二がウルトラマンの特撮を撮影するために、当時にしてウン億円のオプティカル合成機を買ったとか、アントニオ猪木が新しいプロレス団体を作るために数千万の借金をしたとか。これって、失敗したら自殺もんじゃないですか。でもそれをやってしまう度胸というのは、死んでもやり遂げるという覚悟が出来ているからだと思うんですよね。宮崎さんはちょっと違うみたいですが、高畑さんと鈴木さんは「これをやり遂げる事ができたら死んで本望だ」という覚悟が出来ていたんじゃないかと思いました。これは見習うべき事で、やたら覚悟をすればいいというもんじゃなくて、本当に自分の人生をかけるに値する事に挑戦しているかどうか、ということなんじゃないかと思いました。

■他にも色々と学びが多かった
 そのほかにも、この本から学んだ事は多かったです。
 「アニメージュ」編集長になった鈴木さんは、映画版「じゃチエ」制作中の高畑さんと「カリ城」制作中の宮崎さんに毎日会いに行くことになったそうですが、そこで「これほどまでに働くのか、今や“作家”はこんなところにいるのかと思った」んだそうです。

 ナウシカ撮影が終わった後、宮崎さんは「もう監督はしたくない」といったそうです。理由は、いい作品を完成させようと思ったら、机を並べていた人にも厳しく当たらなくてはいけなくなるので、人との関係を壊してしまうから。でもこれって裏を返すと、いい物を作るためには妥協しないということですよね。

 「千と千尋の神隠し」の前に、宮崎監督は「煙突描きのリン」という映画の制作準備を1年近く続けていたそうです。でもそれが出来ないと見るや、あっという間にその制作から手を引いたそうです。音楽をやっていると、長い時間をかけて書いた曲がどうにもうまくない時ああリます。うまくないと思っているのにずっと作っていたものだから捨てられずにアルバムに入れたりしちゃったり。でも、本当に「俺は傑作アルバムを作るんだ」という覚悟が出来ていたら、そこで捨てられると思うんですよ。宮崎さんはその覚悟が出来てるんだろうな、みたいな。

 鈴木さんの映画観。戦後のある時期まで、日本映画のテーマの多くは貧乏とその克服だった。でも一億層中流階級時代になってからは貧乏がテーマたりえなくなった。そこで映画のテーマが「心の問題とその克服」になっていった。「千と千尋~」を千尋の恋愛ではなくカオナシを売りとしたのはそれが理由…なるほど。

 劇場から見た映画のヒットのさせ方。今はひとつの劇場で複数の映画を上映できるようになりましたが、昔はひとつのスクリーンでひとつの映画。そのころは、日本には3400ほどのスクリーンがあって、うち大勢の客が入れるのは300ぐらい。この300で興行収入の半分ぐらいをあげたんだそうです。だから、作品の面白さや人気も勿論あるけど、この主要300スクリーンを押さえれば確実にいい数字は出る…なるほど~!

 移動時間の暇つぶしに読もうと思って買った本でしたが、実に学びが多かったです。そして、この本を読む限り、宮崎さんが本当に作りたかった映画は「ナウシカ」だけだったんだな、と思ったり。たしかに映画を観ればそうなんだろうなと思いますしね。これは宮崎駿さんや高畑勲さんやジブリのアニメのファンだけでなく、音楽を含むクリエイターさんには学びの多い一冊じゃないかと。読んで本当によかったです!


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『Bobby Caldwell / Heart of Mine』

Bobby Caldwell_Heart of Mine 1988年にAORの看板選手ボビー・コールドウェルが発表した5枚目のアルバムです。コールドウェルさんのデビュー作やボズ・スキャッグス『Silk Degrees』が78年、マイケル・フランクス『One Bad Habit』が80年。それに対してこのアルバムが88年で、この10年の月日が意味を持っている気がしました。良くも悪くもAOR の様式美が完成してしまった、みたいな。

 音の感触がものすごくマイアミ・バイスでした(^^;)。別の言い方をすると、ディズニーのアニメ映画『アラジン』の主題歌、みたいな。これはコールドウェルさんのデビュー・アルバムとは似て非なるもので、簡単に言うとアレンジではなくて音色で表現する雰囲気ものの音楽になってしまった、みたいな。カウンターメロもヴァリエーションも何もなくなって、雰囲気だけ似せて中身がないこの感じに、80年代後半の軽薄なアメリカ文化そのものを感じてしまいました。悲しいかな、その頃って日本も右へ倣えだったんですよね…。

 たしかに、音楽にとってサウンドイメージって大事だと思います。AOR やニューソウルがこぞって使ったエレピの音なんて、あの音色自体が洗練された音楽の雰囲気の大きな要素になっている気がしますし。でも音楽って雰囲気だけじゃなくて、構造とか、起承転結を含めた時間のドラマとか、重要な要素がいっぱいあると思うんです。それがないと、うわべだけ取り繕って中身がない張りぼてみたいに感じちゃうちゃうんだな、みたいな。元々はすごくプロフェッショナルなものを作っていた人だっただけに、すごく残念。分かりやすくシンプルにしようとしたらやり過ぎちゃったのかな…音楽って「人が聴いたらどう思うのかな」とか考えたら大体ろくなことにならないですね(^^;)。


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『Bobby Caldwell』

Bobby Caldwell 「ボズ・スキャッグスと並ぶAORのシンガーソングライター」な~んて耳にして聴いたのがボビー・コールドウェルでした。これは1978年発表のデビュー・アルバムで、邦題は「イヴニング・スキャンダル」。このアルバム収録曲では、「What You Won't Do for Love」がヒットしました。

 はじめ、僕はボビー・コールドウェルをアフリカン・アメリカンだと思っていたんです。だって歌い方がものすごくブラコンっぽくてメッチャうまかったし、音楽もそんな感じだったから。ヒットした「What You Won't Do for Love」なんて、曲はいいし、エレピのうしろで鳴っているブラス・セクションのアレンジは都会的だったし、歌はうまいし、洗練されたフィリー・ソウルかレア・グルーヴ系のファンクかと思ったぐらい。
 でもって、ボビー・コールドウェルさんは作詞作曲のほか、鍵盤楽器にギターにベース、そしてヴォーカルまでこのレベルで歌ってしまうのを聴いて、ここがAORのシンガーソングライターの究極形なんだろうな、と思ったものでした。

 ところが音楽というのは難しいです…演奏もアレンジも歌もボズ・スキャッグスさんやクリストファー・クロスさんより明らかに上、アルバムも非の打ち所がない完成度なのに、僕はこのアルバムをあんまり愛聴しなかったんですよね。理由は作曲で、特にメロディやフレーズの構造化の仕方が問題なんじゃないかと思います。音楽理論や演奏に長けたギタリストやピアニストより、ろくに楽譜すら読めないヴォーカリストの方がいい曲を書いちゃう事ってあるじゃないですか。あれってなんでかなと若い頃から疑問に思ってたんですが、印象的なメロディを軸に作曲するか、和声や構造から作曲するかの差なのかも。というわけで、素晴らしい完成度である事は間違いないけどフックがなく、愛聴盤にならなかったAOR名盤なのでした。でも間違いなく完成度高し!


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『Boz Scaggs / Silk Degrees』

Boz Scaggs Silk Degrees AOR のシンガーソングライターと言えば、クリストファー・クロスよりこの人の方が有名かも。ボズ・スキャッグスです!これは名曲「We're all alone(二人だけ)」が入った1976年発表の7枚目のアルバムで、AORの大名盤というふれこみで聴いた1枚でした。

 僕はこのアルバムをLPで持ってるんですが、始まってしばらくはあまりに普通すぎて、退屈しちゃいました(^^;)。でもA面ラストのクロスオーバーなサウンドとアレンジが光る「Harbor Lights」で「おっ?!」となり、その詞を聴くに至って完全に引きずり込まれました。

Son of a Tokyo Rose. I was bound to wander from home
東京ローズを母に持つ俺は、生まれついての放浪者…


 そして、ニューソウル調のファンクさとAORの都会さを併せを持つB面1曲目「Low Down」は、執拗に繰り返すフェンダーベースとカウンターを取るストリングスの対比にしびれました。
 さらに、アルバム最後に流れる「We're all alone」は、AOR を代表する文句なしの大名曲。ポップスの作曲にクリシェがどれだけ効果があるかを思い知らされました。この曲も詞がいい…。

Outside the rain begins and it may never end
表で降り始めた雨はやみそうにない


 抽象的な言葉ではなく、こういう具体的な現実の描写から始めると、詩って一気にリアるに感じる気がして、僕は引き込まれやすくなるみたい。そして、日常のどこを切り抜くかという所にセンスを感じます。この日常の切り取り方の背景にあるのがまさに「アダルト・コンテンポラリー」なんでしょうね…。

 AOR の代名詞のようなボズ・スキャッグスさんですが、元々はスティーヴ・ミラー・バンドのギタリストで、このアルバム以前はブルースロックやR&B 調の音楽をやっていたそうです。そのラフな感じはたしかに残っていて、A面のほとんどで「普通だな」と感じたり、実は「We're all alone」もよく聴くと音痴だったりするのも、そういう出自が理由かも。だから後期ドゥ―ビー・ブラザーズみたいなとんでもない完成度のAOR ではないんですが、でも都会的で大人向けというAOR的なるもののツボは見事にとらえていたと思いました。今も僕がよく聴くのは上に書いた3曲だけなんですが、この3曲が曲・アレンジ・詞ともにとてつもない素晴らしさ。すばらしい歌だと思っています。これは推薦!


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『Christopher Cross / Another Page』

Christopher Cross Another Page 1983年発表、クリストファー・クロスのセカンド・アルバムです。ジャケットはやっぱりフラミンゴ。もしかして、中米あたりの出身の人なのか…と思ったら、テキサス出身でした、惜しい。ちなみに、フラミンゴというとマイアミのイメージだったんですが、マイアミに野性のフラミンゴはいないそうです。じゃあマイアミ・バイスのオープニングに毎回映っていたフラミンゴって…。

 ファーストから4年も開いてるんですね。でも、内容はファーストと同様でした。違うのは、ファーストには大好きな曲が1曲あったのに、こっちは1曲もなかった事。要するに、コードとメロディだけ書いて、あとはスタジオミュージシャンに丸投げというスタイルなので、曲が茫洋として全部同じ曲に聞こえちゃうんです。僕個人の好き嫌いだけでなく、単純に完成度が低い音楽なんじゃないかと。

 というわけで、大人になってから好きな音楽のひとつになったAORでしたが、残念ながらクリストファー・クロスさんは水に合わず。まあ人それぞれですから、これは仕方ないですよね。ただ、ファーストに入っていた「Ride Like The Wind」は好きです。


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『Christopher Cross』

Christopher Cross 1979年発表、AOR の代名詞のひとりであるクリストファー・クロスさんのデビューアルバムです。邦題は『南から来た男』。フラミンゴのジャケットにさわやかなシティポップという事で、このジャケットを見るといつもTVドラマ「マイアミ・バイス」を連想しちゃったりして(^^)。
 若いころはAORが苦手だったんですが、大人になってマイケル・フランクスや後期ドゥービー・ブラザーズを聴き直してから考えが変わりました。というわけで、20代も後半になった頃にクリストファー・クロスさんにも手を出したんですが、このアルバムは僕には合いませんでした(^^;)>。ピアノもコードを常にベタっとプレスするばかり、サックスソロも爽やかフュージョンみたいで腑抜け。要するに、雰囲気だけは大人っぽいけど音楽の内容は見かけ倒しで大人とはとうてい言えない、みたいな(^^;)。
 
 そんな中で良かったのは「Ride Like The Wind」。この曲、聴けば「あ、これか!」と思う人も少なくないと思うんですが、最後にレペティションのリフを配置してるのがカッコよく感じたんです。きっと、この曲が入ってたからレコード棚に残しておいたんですね、僕は。AOR は曲の構造に工夫をしたものが結構ありますが、月並みなツーハーフばかり聴いていると、こういう仕掛けがあるだけで「おっいいね!」と思っちゃいます。

 というわけで、僕は今後もこの1曲しか聴かなそうなアルバムですが、その1曲が大好きなもんで困ります(^^;)。まあでもぜんぶ面白くないアルバムというのもいっぱいあるんだし、1曲でも好きな曲があるのはありがたい事ですね(^^)。


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『Georges Brassens / N°4』

Georges Brassens_No4 ジョルジュ・ブラッサンスも、シャンソン・リテレール(文学的シャンソン)の代表的存在として知られています。これはブラッサンスが1958年に発表した4枚目のアルバムです。収録時間がやたらと短いので、オリジナルは10インチ盤だったのかも。ジョルジュ・ムスタキもそうですが、ジョルジュ・ブラッサンスは詩が歌の詩とは思えないほど素晴らしいシンガーソングライターとして有名な人です。

 このアルバム、ギターを弾き語りするスタイルなもんで、英米音楽に馴染んだ僕にとってはフォークソングみたいだと感じました。歌もうまくはなく、けっこう無骨にガツガツ歌う感じ。というわけで、シャンソンというよりロシアやウクライナのプロテスト・ソングとか、ヨーロッパの船乗りの歌に近いものを感じたほどです。へえ~、伝説のブラッサンスってこんな感じだったんだ…みたいな。まあ、シャンソンという言葉は日本だけの言葉だそうで、フランスでは歌はみんなシャンソンというそうですから、日本でいうフランスの歌謡音楽はシャンソンやフレンチ・ポップスというジャンル分けだけではおさまりきらないものがあるという事なんでしょうね。

 ブラッサンスはけっこう社会派の詩を書くんだそうですが、僕はこのレコードを輸入盤で買ってしまったんですよ。つまり詞が分からない…。とはいえ、ブラッサンスの国内盤って見た事ないので、日本語対訳はシャンソンやってるハウスで聴くとか、そういう方法ぐらいしかないんでしょうが、そんなの貧乏な僕には無理。フランス語の分からない僕は、ブラッサンスの詩を味わう事がぜんぜんできずに終わってしまったのでした(^^;)>。。ブラッサンス、いつかは再トライしたいんだけど、その時間あるかなあ…。


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『Léo Ferré / chante Verlaine et Rimbaud』

Leo Ferre_chante Verlaine et Rimbaud これもレオ・フェレがフランスの詩人の詩に音楽をつけたCDです。この作品で扱った詩人はヴェルレーヌとランボー。ヴェルレーヌの詩が多かったです。ちなみに、ヴェルレーヌとランボーは師弟関係(同時に禁断の関係)にあった詩人です。やっぱりフランスではこのへんの詩人は特別な存在なんだろうなあ…日本でいうと、中原中也に萩原朔太郎ぐらいの感じかな?1964年発表。

 ランボー『地獄の季節』のCDと違って、こっちはちゃんと曲がつけてありました。レオ・フェレは音大でしっかり音楽を学んだ人なので、やろうと思えばそりゃ人並み以上ですよね。ピアノ弾き語りのものと、それにストリングスが加わったものという2つの編成なんですが、どちらも作曲も編曲もなかなかで、ジュリエット・グレコバルバラが歌っても似合ってしまいそうなシャンソンっぽいアレンジ。そもそもレオ・フェレの曲って、僕は本人の歌唱より他の人がカバーしたもの(もしかして、彼らのために書いたのかな?)で聴く機会が多かったんんですが、なるほどこれは立派な作編曲家だなあ、と思いました。

 同じシャンソン・リテレール系のシンガーソングライターでも、ムスタキやジョルジュ・ブラッサンスがフォークシンガー系のシンガーソングライターだったのに対して、レオ・フェレは立派な作編曲家という感じ。だってよく考えて見えれば、既存の文学詩に音楽をつけるって、シューベルトの頃にはもう始められていたヨーロッパ歌曲の伝統ですよね。これはスコアを含め、その系譜に数えても恥ずかしくない内容じゃないかと思いました…いや、それは誉めすぎだな、かなりポップなアレンジだし(^^)。


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『Léo Ferré / UNE SAISON EN ENFER』

Leo Ferre_UNE SAISON EN ENFER シャンソン・リテレール(文学的シャンソン)で僕がいちばん好きなのが、レオ・フェレです!これは、フランス夭折の大詩人ランボーの詩に音楽をつけたもので、1991年録音。50年代から録音を残してる人なので、晩年の作品と言えるかも。タイトルは「地獄の季節」…ランボーで「イリュミナシオン」と並んで有名な詩集のタイトルです。もうね、こういう事をやる事自体がカッコいいと言わざるを得ないっす。

 音楽の前に、フランスの詩人ランボーの詩集『地獄の季節』について、ちょっとだけ。ランボーの詩集は大量の日本語訳が出ていますが、初期詩集は読まなくてもいいっす。いい詩なんですけど、これならヴェルレーヌのでもボードレールでも代用できるものはいっぱいあります。ところが、ランボーが詩を書くのをやめてアフリカに渡って武器商人になる直前に書いた「地獄の季節」と「イルミナシオン」のふたつの詩集は、それまでの詩集とは切実さも言葉の強烈さもまったく違います。死を覚悟した人が超越した世界を観たかのような言葉です。世界中にあるあらゆる刺繍や散文の中で、もっとも優れたものをあげろと言われたら、僕ならこのふたつの詩集を選びます。例えば、僕が覚えてる一節だけでも、例えばこんな感じ。

 俺は地上の愛に死ねる。献身の思いにも死ねる。俺は多くの人を捨ててきた。俺が行ったら、彼らの苦痛は増すばかりだ。貴方は俺を難破人の中から選んでくださる。取り残された人々は俺の友ではないか。彼らを救ってくれ。

 打ちのめされてしまいます。自分では言葉に出来ない、生きているだけで胸に詰まってくる思いを、この詩集がすべて代弁してくれているような感じ。

 そして、このCDです。歌はあくまで朗読で、そのうしろでピアノを演奏しています。朗読は相当に激情極まった感じで、時に叫ぶようになることも。僕的にはピアノや音楽部分はそこまで感じなかったんですが、教会の中で朗読したような木霊する詩の朗読がとにかく強烈に感じました。

 ほとんど言葉だけのCDって、僕はいくつか持ってるんですが、意外にもつまらないものがないんですよね。ファシズムが台頭した時代のムッソリーニやヒトラーの演説のCDもすごかったし。このCDも強烈。朗読の抑揚だけでこれだけ圧倒されてしまうんだから、レオ・フェレは只者ではないな…って、これをレオ・フェレの紹介CDの筆頭に選んじゃいけないと思うんですけどね(^^;)>、ランボー大好きだから仕方なし。


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『ヨハネス・トニオ・クロイシュ Johannes Tonio Kreusch / ヴィラ=ロボス、ヒナステラギター作品集Villa-Lobos, Ginastera works for guitar』

Johannes Tonio Kreusch_VillaLobos, Ginastera works for guitar ギタリストのヨハネス・トニオ・クロイシュによる、ヴィラ=ロボスとヒナステラとのギター曲を集めたCDです。ヴィラ=ロボスとヒナステラはカップリングされる事の多い作曲家ですが、理由はどちらも近現代の南米クラシックを代表する人だからでしょう。収録は、ヴィラ=ロボス「12のギター練習曲」、ヒナステラ「ギター・ソナタ」でした。

 ヴィラ=ロボスの「12のギター練習曲」については何回か前に書いたので、今回は演奏の比較をレントレさんとすると…う~んなんといえばいいでしょうか、演奏以前にこっちのCDは残響がボワーンとし過ぎてよく分からない(^^;)。
 一方、ヒナステラのギターソナタですが、これは何度きいてもいい曲です!ヒナステラはアルゼンチンの作曲家ですが、南米の泥臭いガッツある感じと、クラシックの作曲技術の高さ、そこに先進性も混じってる感じで素晴らしいです。ただ、この曲はこの曲で福田氏に知さんお名演を知っているもので…でも決して悪い演奏とは思いませんでした。

 クラシック・ギターのレパートリーって、大きく分けるとドイツ系とスペイン系に分かれて、そのスペイン系の親戚筋に南米があって、両者を合わせてラテン系…みたいな地図を描き出している印象を持っていますが、このCDに収められた両曲は紛う事なきラテン系クラシック・ギターの大名曲ではないでしょうか!ただ、このCDの演奏が素晴らしいかというと…もしピアニストなら、スケルツォはもっと速く勢いあるように演奏するかな?でも、ギターだと超絶技巧になりすぎて難しいのかも知れませんね。


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『ヴィラ=ロボス《ギターと小管弦楽のための協奏曲》、テデスコ《ギター協奏曲第1番》 イエペス(g)、ナバロ指揮ロンドン響』

VillaLobos_GuitarKyousoukyoku_Yepes.jpg 「禁じられた遊び」の演奏で知られる多弦ギター奏者のイエペスが、ロンドン響と共にギター協奏曲を演奏したCDです。取り上げた作曲家はどちらもラテン系。最近いろいろ書いてきたブラジルの作曲家ヴィラ=ロボスは割愛するとして、イタリア生まれでアメリカで活躍したテデスコはややマイナーな作曲家かも。ただ、テデスコがマイナーでないと思われるジャンルがあって、それがクラシック・ギター界です。クラシック・ギターのリサイタルに行ってもCDを手にしても、とにかくよく目にする作曲家なんですよね。理由は、テデスコはクラシック・ギターの超大御所セゴビアとコラボレーションして多くのギター曲を書いたから。セゴビアがいてはじめて今のクラシック・ギター界があるような状況なので、そのレパートリーは必然的にジャンル全体にとっても重要なレパートリーにもなった、みたいな所じゃないかと。でもって、このCDに収められたテデスコのギター協奏曲1番もセゴビアのために書かれた曲です。

 テデスコ《ギター協奏曲第1番》。同じラテンとはいえ、イタリア生まれのテデスコの曲は、イタリアっぽい明るさと、貴族文化の名残理みたいなものの両方を感じました。後者は管弦パートのライティングに特にそれを感じ、若いころはこういう貴族音楽っぽい匂いが苦手でしたが、いま聴くとたおやかに感じてけっこう悪くないかも。
 
 ヴィラ=ロボス《ギターと小管弦楽のための協奏曲》。これもセゴビアのために書かれた曲だそうですが、それぐらい近現代のクラシック・ギターにとってセゴビアは特別な存在だったんでしょうね。そしてヴィラ=ロボスの協奏曲は、すごく南米っぽいなあ、みたいな…馬鹿みたいな感想が続いてすみません(^^;)>。でも本当に凄いと思うのは、日本音楽みたいにヨーロッパとは違う5音音階システムを使っているわけでもなく、どちらも7音音階の機能和声という同じ作曲システムを使ってるのに、その中で「イタリアっぽい」「南米っぽい」みたいな色が出てくるところです。ヴィラ=ロボスのギター曲って、まずリズムが強烈で(この曲の1楽章なんてほぼタンゴ!)、以降のブローウェルにまでつながるような南米ギター独特のアルペジオの使い方がものすごく強いカラーになっていると感じました。こういうものをいろんな作曲家や演奏家が共有していく事で、地域色みたいなものがだんだん決まってくるのかも知れません。

 曲としてはロマン派民族主義、その中でもやや保守的ぐらいの音楽。作曲も作品自体もそこまで優れたものとは感じませんでしたが、どちらも現代につながるギター協奏曲の古典として重要な役割を果たしている曲なんだろうな、と思いました。特にヴィラ=ロボスの協奏曲は僕好みでした。
 このCD、実は今回手放そうかと思って聴いたんですが、いざ聴くと意外に面白くて「聴けば聴くほど感動や発見のありそうな音楽だぞ」と思ったので、もう少しうちにいてもらいたいCDになりました(^^)。ヴィラ=ロボスの曲って、独学の人が書いたようなかっこ良さがあるんですよね、理屈より先に手が出る人、みたいな(^^)。


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『ヴィラ=ロボス:ブラジル風バッハ全9曲、ブラジルの子供の謝肉祭による幻想曲、ギター協奏曲 エンリケ・バティス指揮、ロイヤル・フィルハーモニー他』

VillaLobos_BurazilBach_EnriqueBatiz.jpg ブラジル音楽とクラシックを融合させた20世紀初頭の作曲家ヴィラ=ロボスの管弦作品集です。「ブラジル風バッハ」は、部分的には聴いたことあったんですが、全曲は今回初体験!いざ聴いてみると…うああ~第9番まであるのか!時間にしてCD2枚半分、てっきり20~30分ぐらいのギター協奏曲だと思っていました(^^;)。

 「ブラジル風バッハ」は、曲によって編成が異なる曲集でした。
 1番はチェロ合奏。これはまだ西洋音楽の模倣という感じでした。ムードとしては、西洋の植民地というか、西洋人から見て常夏の楽園的な優雅なイメージがあったころの中南米音楽という感じでした。これはこれで時代を感じて良かったのですが、僕的に面白くなったのは2番からでした。
 2番は管弦曲。2番の第1~2楽章は「カパドシオの歌」「われらが大地の歌」なんてタイトルが付けられていますが、主題を演奏している楽器がテナーサックスです。これがソウルジャズかキューバ音楽みたいないやらしい歌い回しをして、場末のキャバレーみたい、う~ん素敵。。第4楽章はオスティナートしているオケ群と、アンサンブルしているオケ群がちょっとばかり不協和ですが、これがなんともカッコいい!なるほどこれなんてまさに西洋音楽とブラジルの庶民の歌音楽が混じってるな、みたいな。
 3番はピアノと管弦の作品。この辺になってくると、管弦の処理にアマチュアっぽさが少なくなってます。西洋音楽と南米の熱っぽさが融合していて、これもカッコいい!!
 5番はソプラノと8つのチェロのための曲で、この曲は聴いた事がありました。タンゴのような西洋音楽と南米の熱さ、そしてどこかに哀愁が漂う感じ。やばいです、1番を聴いていた頃は「独学の作曲家っぽいアマチュアくささがあるな」みたいに軽く聴いてたのに、このへんまで来るとブラジル風バッハのとりこです。7番は、バッハと民族主義と新古典も混じってる感じ、これもいいです。

 20世紀初頭のブラジル音楽をくわしく知らない僕にとっては、ブラジル音楽とクラシックの融合ではなく、クラシック音楽に独特の個性や泥臭さが混じり、時に新古典派のような当時の最先端まで入りこんだ、独創力ある音楽に聴こえました。ちゃんと聴いてみたいとずっと思ってきたものが、僕じゃ予想できなかった新鮮さあふれる素晴らしい音楽でした。これはちょっとお気に入りの音楽になったかも(^^)。


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『ヴィラ=ロボス:ギター曲全集 ウォルフガング・レントレ(g)』

VillaLobos_Lendre.jpg まだ南米音楽に深入りする前の若いころ、クラシック外のジャンルのギタリストの演奏を聴いて「南米のギター音楽はすごい」と思わされました。とにかく馬鹿テク、でもプログレみたいに指先だけの演奏ではなく表現力が抜群、ものによっては作曲技法も相当にモダンで英米の軽音楽なんて比較にならないレベル。そしてその背景に、クラシックが培ってきたギター・メソッドがあることもなんとなく感じてました。バーデン・パウエルの背景には南米だけでなくバッハもあるようなものですね。じゃ、もうちょっとモダンな南米のギター音楽の背景にあるギター音楽って何か…そうやってたどり着いたのが、ヴィラ・ロボスとヒナステラのふたりでした。
 このCDは、ブラジルの作曲家ヴィラ=ロボスのギター全集です。あくまでギターソロの全集なので、ギター協奏曲は収録されていません。また、超有名な「ショーロス」が第1番しか入ってないのは、2番以降がギター曲ではないためです。ギターのレントレという人は…ごめんなさい、知りません(^^;)。クラシックの楽器って、その楽器を演奏する人の中では大有名だけど、そうじゃない人には全く無名という人のオンパレードなんですよね。ドイツ人ギタリストで、作曲家としてギターのための作品も書いているみたいです。収録曲は、以下の通りです。

・5つの前奏曲
・ブラジル民衆組曲
・ショーロス 第1番
・12の練習曲

 僕はブラジルのショーロという音楽を、ピシンギーニャぐらいしか知りません。その次に知ってるのがヴィラ=ロボスのショーロ関係の作品と、日本のショーロ・クラブぐらい。日本のショーロ・クラブって、別にショーロばかりやっているわけじゃないらしいですしね(でもむっちゃくちゃ好き!)。そんな中ヴィラ=ロボスの「ショーロス」の1番はかなり本来のショーロに近いものだそうで、ヴィラ=ロボス自身もギタリストとしてショーロ・バンドに参加していた事があるんだそうです。舞曲風ですが、独特の哀愁がある所は「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」で聴く事の出来るキューバ音楽と同じ。南米というよりヨーロッパのクラシック音楽の匂いを強く感じるところもそうです。というわけで、当初は移民のうちでも上流の人たちが始めた音楽なのかも、と思いました。ギターをジャカジャカ弾くアメリカのフォークみたいに、アマチュアでもなんとかなる音楽ではなく、スペインのギター音楽の系統のものに聴こえました。
 純粋なショーロではないものの、ブラジル民衆組曲」もショーロ色があって、ショーロとヨーロッパ音楽のミックスな感じでした。南米ってスペインと同じぐらいにギター音楽が優れていますが、ヴィラ=ロボスの功績はやっぱり強いんじゃないかなあ。この組曲、のちのサンバやボサ・ノヴァに直結している音楽に聴こえまましたが、実際のところはどうなんでしょうね。採譜して構成に伝わりやすくしたのがヴィラ・ロボスというだけで、民間では普通にこういうのをやっていたという事もあるのかも。
 「12の練習曲」は、解説に「セゴビアがスカルラッティやショパンの練習曲に匹敵する美しさと讃えた」なんて書いてありましたが、僕にはアルペッジョの練習に聴こえてしまいました(^^;)。

 クラシックってどこかアカデミックな側面があって、世俗音楽とかけ離れる事がありますが、ヴィラ=ロボスのギター作品は、ブラジルの世俗音楽と密着した、すごく肉声に近いものに感じました。こういう曲があるから、ブラジルのギター音楽はポピュラーでもきちんと旋律と伴奏を同時に演奏できて、技術が高いかも知れません。日本やアメリカとはここが違うんだな…。この後に素晴らしいギタリストの名演をいくつか聴いてきたもので、いま聴くと古臭い演奏に感じるかなと思っていたんですが、いやいやどうして思った以上に素晴らしかったです!


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ビデオ『キャロル / 燃えつきるキャロル・ラストライブ』

Carol_Moetukiru Last Live_video こっちはキャロルの解散コンサートの映像版です。レコードとの違いは、こちらはフル収録ではない事と、メンバーのインタビューとかキャロル親衛隊やファンへのインタビューなんかも収録されたドキュメンタリー仕上げになっている事です。46分ほどなので、テレビの特番か何かだったのかな?

 映像で見ないと分からない面白さが色々ありました。まずはキャロルの解散コンサートのガードマンを務めた暴走族クールス。はっきり言ってただの暴走族なんですが(しかも本物)、芸能界デビュー前の岩城滉一さんや舘ひろしさんも参加していて、サングラスに革ジャン着てノーヘルで単車ころがして(^^;)、巻き舌で悪そうに話してます。ところがこれがけっこうカッコいい。舘ひろしのドロップハンドルのバイクかっこいい。なるほど、外から見ればおっかないし迷惑でしかないですが、内側に入るとそれぞれに意見を持っていたりするもんだな、と。

 つぎに、客席の近さ。このコンサート、日比谷野音でのコンサートのはずなんですが、ミュージシャンと最前列の客の距離が本当に2メートルぐらいしかないんじゃないかというほど近いです。きっと、感極まって前に来ちゃったんでしょうね、クールスが必死に食い止めてますが怒涛のように前に来てます(^^;)。というわけで、バンドや音楽だけでなく観客含めてすごい熱気、これが当時の日本のロックの熱さなんだな~、みたいな。

 永ちゃんの髪が長い!オールバックにしてグリースでてっかてかに固めてますが、うしろ髪が長すぎてまるでライオン丸です。いや~、若いっていいですねえ。。

 例の消防隊出動騒ぎとなった火災も映っていました。若い頃に観たときはキャロルのロックンロールの熱さばかりに目が行っていましたが、今見ると、戦後復興後に一気に社会問題が噴出した日本の70年代という時代の貴重なドキュメンタリーでもあると思いました。いや~、いいロックンロールバンドだったなあ。。


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『キャロル / 燃えつきる=キャロル・ラスト・ライヴ!1975.4.13.』

Carol Moetukiru Last Live キャロルは横浜(川崎?)からたたき上げで出てきたロックバンドなので、レコードデビュー前の活動期間がそれなりにあるみたいです。それにしたって1973年にデビュー盤が出て、1975年が解散コンサートなのだから、あっという間に社会現象化して、あっという間に過ぎ去ったんでしょうね。これは日比谷野外音楽堂での解散コンサートのライブ録音。同じもののビデオも出ていますが、音楽的にはノーカットのレコードがやっぱりいいです!

 熱い!これは燃える!このレコードを聴いてしまうと、キャロルってやっぱりライブバンドだったんだなあと思います。スタジオ盤が悪いわけじゃないけど、勢いが違いすぎます(^^;)。ロックンロールなのでそんなに難しい事はやってない分、熱く演奏する事にすべて振ってる感じ。考えてみたら、ロックのライブに熱狂した事はずいぶんあるけど、ロックンロールでここまで熱いのって、洋楽含めてもあまり聴いた事ないです。まず、カバーの疾走感がヤバい、「Good Old Rock’n Roll」、「Johnny B. Goode」、「Menphis Tennessee」…熱い!ジョニー大倉の良さが分からない僕でしたが、「Menphis Tennessee」のサイドギターのキレは尋常じゃなかったです。オリジナル曲も、「ルイジアンナ」「ヘイ・タクシー」「憎いあの娘」というロックンロールナンバーがいい!このバンドにはやっぱりロックンロールが似合ってますね(^^)。

 バンドの胆は、実は内海さんのリードギターなんじゃないかと。内海さんのギターは単に単旋律でソロを取るだけでなく、メインのリフも平歌のときのバックも弾いてしまうので、実はサイドギターなしでもこのバンドのオーケストレーションは成立できそう。ロックンロールではあるんだけど、リードギターがスリーピースのロックバンドなみに活躍している事が、70年代でも通用するバンドに押し上げていたように感じます。
 そして、矢沢さんがやっぱり才能の塊だな、と。ヴォーカルのシャウトの決まり具合はロックそのものだし、なによりベースがうまい!バスを支えるとかルートをおさえるだけでなく、カウンターラインを作ったりします。永ちゃんはソロになった後のバンドでもベーシストが素晴らしかったりしますが、あれって矢沢さんがいるからベーシストが手抜きできないと思ってたんじゃないかなあ(^^;)。

 キャロルで1枚だけ聴くなら絶対にこれ!70年代の日本のロックとしても名盤の1枚だと思います。久々に聴きましたが、熱かったです!ヤンキー系のなんちゃってロックと思ってはいけない、間違いなく日本のロックの歴史に残る大名盤じゃないかと!


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『キャロル / ファースト』

Carol_Fast.jpg ファーストというタイトルなのに最後のスタジオ録音アルバム、キャロルのスタジオ最終作です。

 日本のロックバンドにありがちですが、ラストアルバムになると、今まで曲を提供して来なかったメンバーが曲を書いたり、ヴォーカルを取って来なかったメンバーが歌ったり。そしてそれを聴くと、「ああ、この人が曲を書いてこなかったのはいい曲を書けなかったからだし、ヴォーカルをしてこなかったのはヴォーカルがうまくないからなんだな」となるという(^^;)。作曲やヴォーカルを侮ってはいけないという事ですね。。
 このアルバム、解散が見えてから制作に入ったと思うんですが、それもあってか、永ちゃんがロックンロールバンドの範疇を超えた曲でも躊躇せず提供してます。なんとボサノヴァ調の曲とか書いてるんですよ!こんなのロックンロールバンドがライブで出来るわけないと思うんですが、解散も決まってるし、その後の自分の身の振り方を考えてこういう事をしたのかな(^^;)。しかも、そういう曲が、ことごとく良いから困ったもんです。半面、そういう事をしたもんで、アルバムはまとまりがない感じ。

 キャロル結成から解散まではわずか数年。駆け足でしたが、短い期間に素晴らしい事をやったバンドだと思います。見ようによっては、キャロルやツイストは日本の歌謡ロックバンドというイメージが強いので軽くみられがちですが、なかなかどうしてこれぐらい熱狂的なパフォーマンスの出来るロックンロールバンドは、今だってなかなかないんじゃないかと(^^)。


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『キャロル / ファンキー・モンキー・ベイビー』

Carol_Funky Monkey Baby ルイジアンナ」をヒットさせ、皮ジャンを着た暴走族ファッションも相まって社会現象と化したキャロルが、矢継ぎ早に発表したセカンドアルバムです。このアルバムから全曲がオリジナル曲になりました。

 急いで作ったセカンドだからか、曲のクオリティやバンドアレンジがイマイチ(^^;)。有名な「ファンキー・モンキー・ベイビー」は、僕的には「モンキー」の部分が違和感ありすぎて、昔から受け入れられなかったなあ(^^;)。。「ルイジアンナ」の方が完成度がだんぜん高いな…。
 でも、実はソングライターとして無類の才能を持っている矢沢さんが曲を書いているだけあって、いい曲も入っていて、「ミスター・ギブソン」は日本のロカビリー屈指の名曲と思うし、「0時5分の最終列車」「二人だけ」も素晴らしいです。あれ?もしかすると、ロックンロールバンドにしてはポップナンバーやバラードが多いので、バンド形式だと曲を処理しきれなかったという事なのかな‥。

 キャロルは、とにかくライブがすごいです。それは残された映像やライブ音源を聴くと痛いほど分かって、客をあおって熱狂させるビートが熱いのです。でもスタジオアルバムは、ライブで演奏するようなロックンロールばかりじゃなくってバラードもミドルテンポもやるので、バンドでは捌ききれない感じ。永ちゃんのヴォーカルはすごいけど、ジョニー大倉のヴォーカルは声が細すぎて聴いてられない(^^;)。というわけで、いいもの3割、ハズレ7割みたいなアルバムでした。


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Bach Bach

Author:Bach Bach
狭いながらも居心地のいい宿で、奥さんとペット数匹と仲良く暮らしている音楽好きです。若いころに音楽を学びましたが、成績はトホホ状態でした(*゚ー゚)

ずっとつきあってきたレコード/CDやビデオの備忘録をつけようと思い、ブログをはじめてみました。趣味で書いている程度のものですが、いい音楽、いい映画、いい本などを探している方の参考にでもなれば嬉しく思います(ノ^-^)ノ

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ロシアとウクライナがほぼ戦争状態に入りましたが、僕はソ連解体後のウクライナについて本当に無知…。これは2016年にオリバー・ストーン監督が作ったウクライナのドキュメンタリー映画。日本語字幕版が出たらぜひ観たい このブログをYoutube にアップしようか迷い中。するなら作業効率としては早いほど良いんですよね。。その時にはVOICEROIDに話してもらおうかと思ってるけど、誰の声がいいのか考え中
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