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心に残った音楽♪

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『小比類巻かほる / So Real』

KohiruimakiKahoru_So Real 1988年リリース、小比類巻かほるさん5枚目のアルバムです。それまでにリリースされたシングル曲を集め、うち2曲はこれまでのアルバムに未収録。さらに3曲は別バージョンとして新録…みたいな、ベスト盤+αな作りでした。小比類巻さんはこのアルバムを最後にEPICを去るので、最後にベストアルバムを出し、アルバム未収録になったシングルもアルバム化し、またコアなファンも買うようにバージョン違いも入れて…という色んな思惑の結果、こういう面倒な事になったんじゃないかと(^^;)。
 ひとつ前の記事で書いたアルバム『I’m Here』からは「Hold On Me」と「I’m Here」の2曲を収録。それ以前だと、最初に名が知られる事になったセカンド・シングル「両手いっぱいのジョニー」あたりも収録。ただし、「両手いっぱいのジョニー」は、このアルバムで新録されたバージョン違いでした。

 うわああ何もかもがカッコイイ、これは惚れてしまいます。。少しぐらい曲や詞がまずくても、強力なヴォーカルと、見事なアレンジ・演奏・サウンド・メイクなどで、みんないい曲に聴こえてしまいます。ずるい。アレンジなんて、アルバム『I’m Here』で感動した土屋昌已さんが手がけたものでないものも全部いいです。という事は、セルフ・プロデュース能力が高いという事なのかな?

 その分かりやすい例が「両手いっぱいのジョニー」。ヴォーカルひとつとっても、録音し直したこちらの方が数倍パワーアップしてました。元の録音に思い入れがある人にとっては変わるというだけで嫌な事でしょうが、そういうのさえ無かったら、新録の方が圧倒的。というか、デビューしてから歌がうまくなっていって、本人も録音し直したかったのかも知れませんね。

 このアルバムを初めて聴いた時、「小比類巻さんのアルバムは全部聴きたい」と思いました。ある特定のミュージシャンに出会ってそういう気になった事って、音楽が好きな人なら結構体験していると思うんですよね。あのワクワク感ってかけがえのないものだと思いませんか?たくさん音楽を聴くようになると、そういう気持ちって薄れていくので、ある意味で初恋のようで2度は味わえないもの、みたいな。
 70年代生まれの僕が、リアルタイムで日本の歌音楽を聴いたのはせいぜい70~90年ごろまで。その中で、アルバムを全部聴きたいと思ったミュージシャンがどれぐらいいたでしょうか。荒井由実さんや山下達郎さんのような大フェイバリットですら全部とは思わなかったんですから、僕の小比類巻さん推しがどれだけのものか分かってもらえるはず(^^)。でも、学生だから財力に文字間にも限度があり、さらに友人に小比類巻ファンはおらず、他の音楽にも興味津々だった僕が小比類巻さんを聴いたのは86年から88年あたりの数年だけ。それって中学から高校にかけての時期…つまり、ある意味で青春の1ページだったのかも。でも、そう感じておかしくないだけのキラキラと輝いた素晴らしい音楽にミュージシャンだったと思います。もし僕が小比類巻さんのアルバムを1枚だけ人に推薦するとしたら、これです。


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『小比類巻かほる / I'm Here』

KohiruimakiKahoru_ImHere.jpg 80年代中頃、ソニーは邦楽ロックに力を入れていました。CBSソニーもそうでしたが、EPICソニーは輪をかけてそう。ロックと言っても色々ですが、ニューウェイヴの時代を抜けつつあった時代に、ニューウェイヴ的な積極的な音作りは残したまま本格的なプレイ志向が入ってきて、でもあくまでポップなチャート音楽、みたいな。こういうソニー系の日本のロックは、当時中学~高校だった僕には最高にキラキラ輝いたものに感じられました。その代表格がレベッカ、織田哲郎、そして小比類巻かほるさんでした。
 1987年発表のこのアルバムは、小比類巻かほるさんのサード・アルバムで、大ヒットした「HOLD ON ME」収録。好きだったなあ。

 このアルバムをリアルタイムで聴いた時も感動したものでしたが、30年以上たってから聴いても素晴らしいと感じるから凄いです!理由は色々あるとは思うんですが、その筆頭はサウンドメイクのカッコよさなのかも。
 80年代初頭は、スネアにリヴァーブかけて飛ばしたり、逆にゲートかけて音を止めたりと、ドラムを別のデジタル系パーカッションのように響かせるのが流行した時代でした。これってたいがいカッコ悪く感じたんですが、その後にもう少ししっかりしたドラムの音を作るようになったんですよね。それがカッコよくて、特にJロック/ポップのドラムのサウンドは素晴らしかったです。小比類巻さんのこのアルバムなんて、まさにその典型。
 僕が当時カッコいいと思ったこのサウンドを創ったものの多くが、ソニー・スタジオで録音されたものでした。ソニーのエンジニアが最先端を行っていたのかな…ソニーって当時デジタルに変わりつつあった録音機材を作っていたトップ・メーカーだったから、そういう録音機材を持っていたのかも。
 このサウンドを創ったもうひとつの大きな原因と思えるのが、このアルバムの全楽曲のアレンジを担当した土屋昌巳さん。土屋さんって、りりィさんや大橋純子さんのバックバンドを務めたり、一風堂に参加したギタリストさんですよね。つまり80年代どころか、70年代から新しい音を作り出していた人。洋楽丸パクリに走る80年代以降の日本にあって、洋楽以上のサウンド・メイクを生み出したこのアルバムの影の主人公って、土屋昌巳さんなのかも知れません。4曲目「悲しきMoon Light」で使ったエレクトリック・アップライト・ベースの選択なんて、新しいだけでなくベテランならではの音楽能力の高さも感じました(^^)。

 詞も素晴らしかったです。まだティーンエイジャーだった僕にとって、いかにも自分たちの気持ちを代弁していたり、数年後に自分もこうなりたいというお兄さんお姉さんだったり思える詞。いまだに、ヒット曲「HOLD ONE ME 」に出てくる「あなたの代わりは誰にも出来ない」というところはジンとしてしまうんです (^^;)。

 そして、なんといっても小比類巻さんのヴォーカルが強力!声は抜けるしハイノートにはヒットする、でも細くない、ヴィブラートの抜き方も綺麗!このアルバム、曲もアレンジもサウンドメイクも優秀なものが多いですが、それでもつまらない曲はどうしても何曲かありますが、そういう曲ですらヴォーカルが何とかしてしまうんですよね。いや~これは凄いわ。日本語でロックをどう発声するか、このスタイルの最善にようやくたどり着いたのって80年代だったと思うんですが、そのトップランナーが織田哲郎さんや小比類巻さんだったと僕は本気で思ってます。

 素晴らしいアルバム、10代のころにこのアルバムに出会えてよかったです。80年代のJポップのアルバム中でベスト10に入るものと、今でも本気で思っています。大推薦!


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映画『ブルーベルベット』 デヴィッド・リンチ監督、デニス・ホッパー、カイル・マクラクラン出演

BlueVelvet.jpg 映画『イージー・ライダー』と『白昼の幻想』を取り上げながら、ピーター・フォンダばかりに注目してしまったもんで、相方のデニス・ホッパーで印象に残っている映画も取り上げておこうかと。
 僕には『イージー・ライダー』や『地獄の黙示録』以上に、デニス・ホッパーの印象が強烈に残っている映画がありまして、それが1986年公開、『ツイン・ピークス』制作前にデヴィッド・リンチが作った映画『ブルーベルベット』です。『ツイン・ピークス』が作られるまで、僕にとってデヴィッド・リンチとはこの映画の事でした。この映画、『ツイン・ピークス』との共通点がすごく多くて、ある意味でツイン・ピークスのパイロット版みたいな印象すらあります。主演がカイル・マクラクランだったり、赤いカーテンのナイトクラブだったり、奇妙な精神異常者をまつわる事件に沿って話が展開したりするんですよね(^^)。

 父親が倒れ、大学を休学して故郷に帰ったジェフリー(カイル・マクラクラン)。しかし見舞いの帰りに、芝の上で千切れた耳を拾う。これをきっかけに彼は倒錯した事件に巻き込まれ、夫と子供を人質に取られて言いなりにされているナイト・クラブのシンガーのドロシー(イザベラ・ロッセリーニ)と出会う。事件に深入りするうちにドロシーと深い仲になったジェフリーは、彼女をいいなりにしているやくざな男フランク(デニス・ホッパー)と彼女の奇妙な愛の瀬を覗き見る事になり…

 猟奇的な事件に倒錯した世界、そして終盤で事件に警官が絡んでいる事が分かり…と、話はヒッチコック映画のように「先が見たい!」とグイグイ引っ張られていくものでした。かなり倒錯的ですけどね。デニス・ホッパーはサディストのくせに軟禁している女に「マミー、マミー」とか言っちゃうしね。女の方もカイル・マクラクランに「ぶって!私をぶって!」とか言っちゃうしね。かなり変態なので、間違えて彼女と見ないようにしましょう。

BlueVelvet_pic1.jpg でもこの映画の場合、そういったストーリーはむしろオカズで、メインはむしろ覗き見の方かも知れないと思いました。この映画、幸福なアメリカそのものから始まるんです。穏やかな音楽、白いピケットフェンスに綺麗な芝生、水撒きをする初老の父親、学校から帰る子供たち、青い空…もう、これを幸福と言わずになんというのかというぐらいに満たされた世界。でも、脳卒中で男が倒れるや否や、音は一転ノイズにまみれ、カメラは芝に寄ってグロテスクに蠢く昆虫がアップになり…幸福の裏にある闇の部分が映し出されます。以降は、一見とんでもなく幸福そうな町の裏側で起きる、とんでもなく倒錯的で暴力的な世界を追っていくことになります。映画の中で、ふとしたことから女の部屋のクローゼットに逃げ込んだ主人公が、その部屋で起きる奇妙な光景を覗く事になるシーンがありますが、これは実に象徴的。だって視聴者はずっとこの倒錯した世界を覗き見る事になるんですから。
 そしてこの倒錯した世界が、おぞましいだけでなく、妙に魅力があったりします。これは『ツインピークス』もまったく同じですが、現実と虚構の間ぐらいの世界な感じがするんですよね。リアルにし過ぎず、どこか作り物感をわざと残しているような感じ。いかにも芝居らしく役者を配置したりして。

 というわけで、これは人の闇の部分を、自分自身はそこに落ちたくはないけど覗いてみたいという、奇妙な欲求を満たそうとする映画ではないかと。大学生の頃、この映画に妙な魅力を感じ、何度も見直したのでした。何か深い意味があるのではないかと思ってたんですが、いま見ると、メタな部分を考えて作った結果にこういう表現になったのであって、意味はありそうな予感さえさせておけば必要なし、ぐらいの程度のものだったんじゃないかと。魅力的でありつつ、どこか空虚に感じるのはそういう事だからだと思います。そうそう、滝本誠さんの映画批評に嵌ったのもこの頃でした。


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映画『白昼の幻想』 ロジャー・コーマン監督、ピーター・フォンダ、デニス・ホッパー出演

Hakuchuu no gensou 原題は「The Trip」…ド直球です(^^;)。1967年公開、『イージー★ライダー』の姉妹作品のような映画です。だって、ピーター・フォンダとデニス・ホッパー出演で、ジャック・ニコルソン脚本ですからね。ドラッグ臭プンプンですからね。映画の完成順で言えば、この『白昼の幻想』が先です。

 この映画、僕は若い頃にレンタル・ビデオで借りて一度見たきりで、正直言ってストーリーをまったく覚えていませんでした。いまネットで調べてみたら、「映像ディレクターが日常生活に疲れ切ってしまい、LSD を試してみることにして」というものらしいです。いや~まったく覚えてないわ。。
 でも印象は覚えています。ストーリーなんて飾りです、偉い人にはそれが分からんのです。じゃストーリーじゃなくて何を見せる映画かというと、ドラッグでのトリップ体験をそのまま映像化したというもの。つまり、サイケデリック・ロックのコンセプトをそのまま映像に適用した映画、というわけです。僕がこの映画を知ったのも、まさにそういう紹介のされ方をしての事で、そういうトリップ経験のない僕としては、ドラッグやってみる幻覚症状ってどんな感じなんだろうかと思い、興味津々で観たのでした。
 
 結果、どうだったかというと…トリップ体験の映像表現がチープすぎて萎えました(^^;)。細かくは覚えてないんですが、万華鏡ごしに光を見たような映像とか、そんな光景があった記憶があります。実際にトリップした時にこんな感じで世界が見えるのかどうかは知りませんが、この映像を見てトリップできたわけでもなし、一種のアート・フィルムとして観ても完成度が高いわけでもなし、この映像を見て「エフェクトが安っぽいな」とか、ものすごく冷静に客観視している僕がいました。
 思うんですが、抽象の捉え方が甘かったのかも知れません。いくら抽象といったって、マテリアル自体が具体的なわけで、表現としては抽象でもモノとしては具象としてのクオリティが求められるのではないでしょうか。これって抽象画にも言えますよね。具体物の模写でない作品だって、描くために使ったマテリアルの質感とか、抽象物の関係構造性とか、こういうもののクオリティは残るわけじゃないですか。

 これだったら、『殺しの分け前』あたりの映像の表現の方がよほど面白いと思った、若い頃の僕でした。この反省があって、『イージー★ライダー』は生まれたのかも知れません。


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『The Byrds / (Untitled)』

Byrds Untitled 1970年発表、ライブ盤とスタジオ盤を合わせて2枚組となるバーズの大作アルバムです。僕が若い頃に手にいれたのはCDでしたが、CDだと1枚にまとまっていて聴きやすかったです。そもそもバーズのアルバムって1枚30分ぐらいだから、未発表曲を入れ、さらに2 in 1 ぐらいにしてもまだ時間が余るんですよね(^^;)。

 この頃のバーズは、ギター2本の4人編成。メンバーにクラレンス・ホワイトが入っているのが特徴…とか言って、ゲストとしては『The Notorious Byrd Brothers』の時点で、ホワイトさんはすでに参加してました。ホワイトさんはケンタッキー・カーネルズという美味しそうな名前のブルーグラス・バンドに在籍していたギタリスト。ストリング・ベンダーという、ギターのストラップを引っ張るとベンドするという変なギターを使っているんだそうです。昔買った『レコード・コレクターズ』で、本人へのインタビューも読んだ事があるので間違いないっす。でも、CDを聴いてもそれがどういう演奏なのか、僕にはよく分かりませんでした。残念っす。
 でも確かにホワイトさんの演奏は安定してうまくて、特にスタジオ録音の方で分かりました。アドリブでもカウンターラインを奇麗に作るので、単なる主メロと伴奏だけじゃないバンド・アンサンブルが発生するんですよね。「Hungry Planet」や、ブルーグラス的なウォーキン・ベースを使ったアルペジオを聴ける「Take A Whiff On Me」あたりは、一聴の価値があるギター演奏と思います。というわけで、個人的には、安定してレイドバックしたカントリー・ロックが聴ける2枚目のスタジオ盤が好み。

 でもライブとなると…「Mr/Tombourine Man」や「Mr.Spaceman」などの有名曲をやっているのは嬉しかったのですが、バンド全体の演奏がバタバタ。「Eight Miles High」なんて延々インプロヴィゼーションしてましたが、この程度の演奏レベルと構成力では、やってるミュージシャンは楽しいかも知れないけど、聴かされる方としてはね…。

 というわけで、僕的には心地よいカントリー・ロックなスタジオ録音の2枚目が好きでした。レイドバックした田舎のほっこり感を味わうならアルバム『ロデオの恋人』のほうがいいけど、演奏のうまさで言えばこっちじゃないかと。お世辞ではなく、初期イーグルスに近いと感じるほどの、演奏の安定度でした。バーズは初期のフォーク・ロック、中期のサイケに続いて、後期のカントリー・ロック期もいいです!



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『The Byrds / The Notorious Byrd Brothers』

Byrds Notorious Byrd Brothers 1968年発表、バーズの5枚目のアルバムです。アルバムタイトルに入っている「Notorious」とは「悪名高き」ぐらいの意味。アルバム・ジャケットも込みで考えると、西部劇で扱われる西部開拓時代の銀行強盗あたりを意識したタイトルなのかも。そのあたりに、自国アメリカ文化への意識を感じましたが、それは音楽にもあらわれていたと感じました。

 ブリティッシュ・インヴェイジョン直後に誕生したアメリカのバンドながら、ビートルズの後追いだけではないアメリカらしさを感じたのは、アメリカのフォークやカントリーに通じるほっこりした曲想の多さと分厚いコーラス。音に集中せずBGMとしてこの音楽を流したら、本当に古き良きアメリカ音楽的なムードだけが残るかも。まず、これがこのアルバムの第1印象でした。
 でもこのアルバムはそれだけでなく、コンセプト・アルバムにも聴こえるんですよね。ほぼ曲間なしで繋がりますし、これまでのバーズの音楽のようなバンド・サウンドだけでなく、ブラス・セクションまで入っている曲もあります。なにより、各種エフェクトを駆使した音作りが、ビートルズの『サージェント・ベパーズ』やローリング・ストーンズ『サタニック・マジェスティーズ』のようなサイケなコンセプト・アルバムの色も無きにしも非ず。エフェクター駆使と言えば、僕のバーズ初体験となった、映画『イージー・ライダー』で使われているフランジャー全開の「Wasn't Born To Follow」が収録されているのも、このアルバムでした。サイケっぽさで言えば、「Change In Now」の間奏部分も良かったです。

 この凝った録音スタジオ産の音楽づくりは、作曲にも反映されていました。ほっこりした雰囲気に騙されずによく聴くと、曲がバラエティに富んでるんです。「Tribal Gathering」はテイク・ファイブからアイデアを持ってきたような5拍子のジャズ・ビートだし、アルバムの締めとなる「Space Odyssey」は、スコットランド民謡か中世の吟遊詩人の曲のよう。並々ならぬ決意でこのアルバム制作に取り掛かっていたのかも知れませんね。

 というわけで、バンドの実力以上のものを目指した渾身の作品だったためか、このレコードが完成したときに、バーズにはリーダーのロジャー・マッギンとベースのクリス・ヒルマンしか残らなかったそうです。なんとデヴィッド・クロスビーまでクビ…と思いきや、これはクロスビーにも悪い所があって、勝手にバッファロー・スプリングフィールドと共演したり、「LSDを国会議員に服用させるといい事が」なんて明らかにキメちゃってるような発言までしてたんだそうな。あ~そりゃ駄目だ、いくらボスが横暴だからってやっていい事と悪い事がありますわな。それにしたって、クロスビーがいるべきところに馬を置くのはかわいそうな気も(^^;)。

 聴くほどにじわじわ来るアルバム、サイケ路線ではバーズのアルバム中1~2を争うものと思いました。一方で、フックがないから地味に感じる音楽でもあるかも。作曲や演奏のレベルがどうしてももう一歩だし、凝った音楽を作る方法がダビングやエフェクターだったりもするのですが、それは60年代のようやく立ち上がったアメリカン・ロックだから仕方なし。このアルバムのような頑張りの積み重ねが、アメリカン・ロックの大きな礎になったのだと思います。


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『The Byrds / Fifth Dimension』

Byrds Fifth Dimension 僕が最初にバーズに興味を持ったのは、映画『イージー★ライダー』の中で使われていた「Wasn't Born To Follow」を聴いた時でした。この曲、最初はコーラスの美しいのどかなフォークロックですが、間奏になった途端にギターとドラムがフランジャーでギュワンギュワン鳴って強烈なサイケデリックになるのです!これでバーズに興味を持ったもので、僕にとってのバーズの入り口はフォーク・ロックでもカントリー・ロックでもなく、サイケデリック・ロックでした。でもって、史上初のサイケデリック・ロック・アルバムと言われたのが、66年発表のバーズのサード・アルバム『Fifth Dimension』でした。

 このアルバム、全編がサイケなわけではありません。トラディショナル・ナンバーのビート・ロック化も2曲あるし、8割がたは前作までの方向性と同じ。その中で、バーズが作ったビート・ロックの最高傑作(あくまで僕の私見です)「I see you」が入っていて、コツコツとキャリアを積んできたバンドがいよいよ完成の域に達したようにも感じました。
 あと、「Mr.Spaceman」は、のちにバーズのメイン・スタイルになるカントリー・ミュージックの初出ではないかと。変化は着実に近づいていたんですね。

 そんな中、サイケ色がある曲が2曲あって、それが「2-4-2 Fox Trot」と、サイケの大有名曲「Eight miles high」。前者は音楽と飛行機のコックピットでの通信音が同時に鳴っているもので、若い頃の僕はこういうのを「斬新なアイデアだ!」なんて本気で感じてました…今となっては青くさくてこっ恥ずかしいですが、本当にそう感じてたんですよね。外がないと自分がどういうルールに縛られているのかって、見えないじゃないですか。ところがこういうのを聴くことで、自分が常識だと思っていた事の外が生まれて、自分がどれだけ常識に捉われた狭い感性の中で生きていたかに気づかされた、みたいな。あ、音楽ってAメロがあってサビがあって歌があってだけじゃなくていいんだな、みたいに思ったんですよ。今となっては「そんな事すら知らないのかよ、むしろそんなのを音楽だと思ってんのかよ、お前は」と恥ずかしくなるばかりなんですが(^^;)。。

 もうひとつの「Eight miles high」。この曲、僕は音楽として大好きで、なんと魅力的な曲かと思ってしまいます。ただ、それって徐々に音数を増やしていくアレンジであったり、その中でミ~ファ~ソ~と上がりながら入るコーラスの入りのワクワク感だったりであって、決してサイケどうこうではないのです。じゃ、なんでこの曲がサイケと言われるかというと、詞なんだそうです。「8マイル高く」って、たしかにキメちゃってる感じはありますね(^^;)。

 後から知った事ですが、実はこのアルバムの前に、バーズの作曲の要だった超重要ミュージシャンのジーン・クラークが脱退したそうな。大した実力もないくせに自分が偉いと勘違いしていたどこかの総理大臣みたいなロジャー・マッギンの横暴が災いしたのかも知れませんが、いずれにしてもこれでバンドの音楽性が変化したのかも知れません。そりゃそうですよね、メイン・ライターがいなくなって音楽が変わらないわけがないですし。これでバンドは大ピンチになるかと思いきや、ロジャー・マッギンとデヴィッド・クロスビーが奮起して作曲を担当、カバーは「Hey Joe」と2曲のトラディショナルだけになりました。これでバーズはフォーク・リバイバルのカバー・バンドから脱し、ロジャー・マッギンの実験精神がサイケデリック・ロックの道まで開き、いよいよ物真似でないバーズ独自の音楽が築かれたのでした。災い転じて福と為したのでしょうが、それもロジャー・マッギンとデヴィッド・クロスビーの頑張りがあってこそ。人間的な弱点があっても、やることをやる人は立派という事じゃないかと。
 というわけで、サイケデリックなバーズを聴くなら、このアルバムか、『The Notorious Byrd Brothers』のどちらかがおススメ。個人的には、こっちの方が好みです。


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映画『イージー★ライダー Easy Rider』 監督デニス・ホッパー、脚本デニス・ホッパー、ピーター・フォンダ他

EasyRider.jpg 1969年公開、アメリカン・ニューシネマの代表作のひとつと言われている映画です。でもまだ若かった僕はアメリカン・ニューシネマなんて言葉すら知らず、「ロック好きなら観ないとダメだよ」と音楽雑誌に煽られて観るに至ったのでした。中学生って想像以上に馬鹿ですよね(^^;)。。でも実際に、ここからバーズやザ・バンドやステッペン・ウルフを知り、イギリス勢ばかり聴いていた僕がアメリカン・ロックを聴き始めるきっかけにもなりました。ジミヘンやステッペン・ウルフはいずれ出会っただろうけど、バーズとザ・バンドは、この映画を観ていなかったら聴かずに終わっていた気がします。

 唐突に終わるあのラスト・シーンを含め、当時の僕がこの映画を面白く思ったかどうかは微妙。映画好きの友人に、「アメリカン・ニューシネマっていうのはいきなり死んで終わりとか、そういうのが多いんだよ」とか「その虚無感が深いんだよ」とか言われて、そういうものなのかと無理やり説き伏せられた感じで、実際には面白く思えていなかったと思います。のちにハードボイルド文学やロスト・ジェネレーション文学といったアメリカ文学を読むようになって、はじめて言わんとしている事が何となくわかった気がしましたが、そう思うようになってから観なおしたとしても、やっぱり面白いと思わなかったんじゃないかと。
 
 でもたしかに、「ロックを聴くなら観た方が良い」は本当だったかも知れません。社会見学になったんですよね。昔のアメリカって、そこまでの不良でなくともドラッグやる若者が多かったそうですが、それがどれぐらいのニュアンスのものかも何となくわかった気になれました。同様に、ヒッピー文化も、またヒッピーと普通の学生の距離感も、当時のアメリカ社会でのロックの位置も、西海岸や排他的と聞いていたアメリカ南部の匂いですら、本で読むよりこの映画を観た方が、「ああ、こういう感じなんだな」と、スッと伝わってくるものがありました。実際に69年の映画なので、ファッションにしてもアメリカの風景にしても、あとから時代考証して作ったものではないリアルさがあるんですよね。脚本と監督を務めたピーター・フォンダもデニス・ホッパーも実際に若かったので、大人から見た若者像ではなく、若者自身が素でそれをやっているだけに、余計にリアルに感じるというか。

 僕にとっては、ブリティッシュ・インヴェイジョン以降のアメリカン・ロック幕開け期の時代背景が、ほとんどこの映画と『ウッドストック』のふたつで腑に落ちた気がしました。以降、その時代のアメリカ映画を観るたびに、イメージは少しずつマイナーチェンジされましたが、でも60~70年代のアメリカのイメージの大元は、イージー・ライダーとウッドストックを見て創られたものから大きくは変わらなかったです。
 大きく見れば、楽観主義なアメリカ人のコインの裏である虚無感を示すアメリカ文学と同じ系譜にある作品だったのかな、と。たしかに、過剰演出なハリウッド映画のラインでこの映画を観るより、ギンズバーグらまで含むヘミングウェイ以降のハードボイルドな乾いたアメリカ文学や、『明日に向かって撃て!』『華麗なるギャツビー』というラインからこの映画を観た方が、自分の中にスッと入ってくるでしょうしね。与えられる宣伝イメージではないネイティブなアメリカの空気感を感じた映画でした。


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TVドラマ『熱中時代』セカンド・シリーズ 水谷豊主演

NecchuuJidai2_title.jpg 小学校を舞台にした学園ドラマ『熱中時代』はファーストシリーズが大ヒット。僕も子供の頃に夢中になって観ました。そのヒットの余勢をかって、79年には『熱中時代・刑事編』、さらに80~81年には教師編に戻って『熱中時代』セカンド・シリーズが制作されました。今回書くのは、教師編セカンド・シリーズの方です。

 ファースト・シリーズにあんなに夢中になった僕なのに、セカンド・シリーズはそこまで夢中にはなれませんでした。観るには観たんですよ。ただ、毎週放送を楽しみにしていたわけではなく、テレビをつけている時にたまたまやっていたら見る、ぐらいの熱。
 なんとなく覚えているエピソードもあるぐらいなので、話自体は面白かったんだと思います。ただ、僕にはイヤな事があったんです。北海道なまりの妹(池上季実子)がいない、一緒に校長先生の家に下宿していた教師たち(志穂美悦子や島村佳江)もいない、腐れ縁ながらも友人になったお巡りさん(谷隼人)が他の警官に入れ替わっている…これは僕が愛していた『熱中時代』とは似て異なるものでした。子供って変なこだわりがあるもんですが、子ども時代の僕にはこの些細な差がイヤだったんです。似たような事をTVドラマ『西遊記』でも味わいました。猪八戒は西田敏行であって、左とん平とか認められないだろ…みたな(^^;)。
 そう思い始めたからか、あるいは自分が少し大きくなっていたからか(といったって小学生なんですけどね)、ドラマにのめりこめない自分がいました。ファースト・シリーズでは、まるで自分がドラマ中の生徒のひとりでもあるかのようなのめり方をしていたのに、セカンド・シリーズではテレビの中でお芝居やってるな、ぐらいの感じ。

 というわけで、僕にとっての『熱中時代』教師編は、ファースト・シリーズの事。いま仮にファースト・シリーズが放送されたら見る気がするけど、セカンド・シリーズだったらきっと見ないだろうな。でも、観ればきっと面白いんでしょうね。


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TVドラマ『熱中時代』ファースト・シリーズ#3 17~26話 水谷豊主演

NecchuuJidai_ep18.jpg 『熱中時代』第1シリーズをやっていた頃に僕は小学校低学年。年齢からしてこれがリアルタイムで観た初めての大人向けのテレビドラマだったのかも。なんだって最初に体験したものって印象が強く、またそれが好ましいものだと特に好きになりやすい気がしますが、たしかに僕は『熱中時代』が今でも大好きです。これを皮切りに、堺正章『西遊記』、西田敏行『池中玄太80キロ』、松田優作『探偵物語』、桃井かおり『ちょっとマイウェイ』…テレビドラマが大好きで見まくりました。ああなつかしい。
 でもテレビドラマに夢中になったのは小学生までで、中学以降はほとんど見なくなってしまいました。それって70年代後半から80年代前半にやっていたテレビドラマがあまりに面白かったもので、以降のものが格下に感じてしまったからなのかも。それぐらい、『熱中時代』や『池中玄太80キロ』は、僕にとってスペシャルなものだったんですよね。
 というわけで、17話から最終回までで面白かったエピソードの感想を行きます!

■#18「三年四組学級閉鎖」
 あと数人休めば学級閉鎖という所で、ある生徒がガキ大将にずる休みを強要される。生徒のために親身になってきたつもりの北野先生は裏切られた気になり、先生をだました生徒は問い詰められて泣きわめく。北野は生徒たち全員の家を家庭訪問し、学級閉鎖になった教室に行き、たったひとりで生徒の来るのを待ち…。
 いやあ、この話は涙が出てしまいました。ご都合主義かもしれないけど、でも自分から心を開かなければ相手だって心を開かないですよね。

■#19「熱中先生と恋の破れガサ」
 お巡りさんの片思い、校長先生の義理の弟の片思い、そして大学時代の同級生が北野先生に寄せる思いなど、大人の恋模様が描かれるエピソード。特に大学時代の同級生役の風吹ジュンの演技が素晴らしかったです。帰ろうとする男をひき留めようとする女…心動かされるものがありました。風吹さん、松田優作主演映画『蘇る金狼』でも、松本清張のTVドラマ『断線』でも、素晴らしい演技をしてました。

■#20「若草物語・熱中篇」
 親がおらず、姉が母親代わりになって妹たちを育てている家。妹たちは、優しくてカッコいい北野先生と姉を結婚させようと、あれやこれやの策を練り…。学校の先生に憧れるって、女子の場合はあるんでしょうね。僕も、小学4年の時の担任の先生は美人でしたが、でも恋までは行かなかったなあ、自分には関わりのない事でございます、みたいな(^^;)。

NecchuuJidai_ep21.jpg■#21「人情タコ焼き先生」
 父子家庭の子どもの父親が怪我をして仕事が出来ず、内職を手伝ったばかりに宿題の出来ない女の子。事情を知った北野先生は、父親の屋台をひいて仕事を手伝い、子どもに宿題をさせる。そして、事情を知ったクラスの父親たちが、屋台を手伝おうと名乗りだし…
 いやあ、子供のころは「クサいドラマだな」と思ったもんですが、大人になってから見ると涙が止まらないです。爺になると涙腺が緩むというのは本当ですわ。

■#23「熱中先生と笑わない少女」
 親が保証人になったばかりに借金を背負う事となった家の女の子。この子が人を信用できず、人を許せない性格になっている事を心配した北野先生は…。
 このメイン・ストーリーも良かったですが、サブ・ストーリーで校長先生が山奥の学校に赴任する事を決意するくだりがまた素晴らしかったです。「今の自分は、若い頃の半分の情熱もない気がします。これじゃいけません。私が働けるのもあと5年です。この残された5年間に何をするか。」いやいや、他人ごとではない言葉です…。

■#24「3年4組フィーバーズ二連敗」
 父親が医者の子どもは塾通いで、ろくにボールを投げる事も出来ない。3年生のクラス対抗ソフトボール大会で、全員にプレイするチャンスを与えようとするばかりに連敗した北野先生のクラスは、最終戦でこの生徒が出場する事になる。医者になるため親に私立への転校を決められた生徒だが、クラスに迷惑を掛けたくないと休日返上の練習に来るが…。
 もうすぐ最終回。大人たちの恋の行方もだんだん見えてきて、この回で一組のカップルが誕生。でもおまわりさんの恋は雲行きが怪しいなあ(^^)。。

NecchuuJidai_ep25.jpg■#25「3年4組父母会総会」
 新米教師として、父母会で来期の担任を拒否されるのではないかと気が気でない北野先生。しかし、これまでのひたむきさが実ったか、生徒たちからも父母からも、来年も自分たちの担任でいてくれるよう懇願される。喜ぶ北野だったが、実家で事故があり、家業を手伝ってくれるよう手紙が届く。
 「熱中時代」初の前後編です。いやあ、これは切ない…。小学校の卒業式の時に泣く教師がいましたが、子供のころは馬鹿じゃないかと思ってました。芝居くさいとも。でもこのエピソードを見ると、泣く教師の気持ちが分かる気がしました。
 そして、おまわりさんはあわれ魚津先生に失恋。しかし、魚津先生役の島村佳江さん、影がある美人だなあ。子供のころ、兄が「ヒロインの桃子先生(志穂美悦子)より魚津先生の方が美人じゃん」と言っていた気持ちがよく分かります。でも影があるからヒロイン向きじゃないんだろうな。。

■#26「さよなら熱中先生」
北野先生は、来年の担任になれずに田舎に帰らなければならなくなった事を、終業式の日に話す。通信簿を渡しながら、ひとりひとりの生徒にねぎらいの言葉をかける。
 最終回は意外とあっさり。でも、見ていて気持ちが清々しくなるドラマだったので、あまり悲しく終わらないこれぐらいが良かったのかも知れません。

 大人になってから『熱中時代』を観ると、話も面白かったのですが、それ以上に自分が小学生時代にタイムスリップしたような気分になって、それが最高でした。ドラマ内容でそう思うのと、このドラマを見ていた頃の自分を思い出すのと、両方なんでしょう。はじめて小学校で友達が出来て、みんなでドッジボールやって遊んで、机をくっつけて給食を食べて…。女優の小池栄子さんが、「小学生までが人生のすべてだった」みたいな事を言ってましたが、僕もまったく同感。特に、小学1~3年生が僕の人生の黄金期でした。それを思い出させてくれた大フェイバリットなテレビドラマ、今でも大好きでビデオを手元に残してあります…VHSなもんで、デッキが壊れたらそこでお終いなんですけどね(^^)。


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TVドラマ『熱中時代』ファースト・シリーズ#2 9~16話 水谷豊主演

NecchuuJidai_ep9.jpg 子供のころに大好きで見ていたテレビドラマ『熱中時代』、僕の友達もみんな観てました。思い出すのは1~2年生の時の友人のI君。彼は帰る方向が同じなので担任の先生から一緒に帰るペアに指定され、小学校に入って最初に出来た友達でした。彼は、ひとりだけ帰るペアが出来なかったもうひとりのクラスメイトを「仲間に入れてあげようよ」と言ったり、のちに有名私大に入ったりと、聡明な子でした。ふたりともウルトラマンが好きで、一緒によく遊んで、彼の家で「僕の先生はフィーバー」のレコードを一緒に聴いて、彼のお兄さんが持っていた「スペクトルマン」のレコードを聴かせてくれて…いやあ、7~8歳の頃の記憶なのに、いくらでも思い出せてしまいます。懐かしくて涙が出そう。。
 というわけで、今回は9話から16話までの中で面白かったエピソードの感想を簡単に書いていきます!

■#9「二つの恋のメロディー」
 小3の子どもの初恋を描いた話。まさかの付き合える展開になり、そしてまさかの「飽きた」で破局(^^;)。でもなんだろ、こんなものですら最高に面白く感じてしまうのが熱中時代の凄さかも。。

NecchuuJidai_ep10.jpg■#10「やって来たガキ大将」
 転校生がとんでもない乱暴者。でも乱暴になったのは、離婚して父親がいないのが一因。そしてその父親というのが、校長先生の義理の弟、ここにドラマあり。そして最後は、いじめっ子がクラスの女子のために年長の生徒に立ち向かって…いい話ですねえ(^^)。でも現実だと、年長とのトラブルってこれで終わらないんだよなあ。

■#11「涙の父母参観日」
 授業参観、普通なら出来る生徒を指してつつがなく進めるところを、北野は出来ない生徒を教えようと躍起になり、父兄からも注意される。しかし「これがいつもやっている授業ですから」と頑張り、最後に生徒は理解にいたり、クラス中が拍手喝さい。
 いやあ、良い話だなあ。誠心誠意というのがいいんだな~、見ているこちらが学ばされます。。

■#12「熱中先生と少年探偵団」
 理科室の備品が盗まれ、その犯人を捜すというもの。話自体は大したものではないですが、見ていてすっきり。おまわりさんや先生といった登場人物がみんな爽やかだからなんでしょうね。そしてこのドラマ、舞台が東京の井の頭線沿線の事が多く、渋谷、下北沢、吉祥寺がよく出てきます。このへんの70年代末の景観を見れるのもまた楽しいです(^^)。

NecchuuJidai_ep13.jpg■#13「故郷に帰った熱中先生」
 正月休みに、北野先生と妹(池上季実子)が故郷の北海道に帰ります。北海道弁で話す池上さん可愛い(^^)。仲のいい兄妹って良いですねぇ、うらやましいっす。

■#14「消えたお年玉の謎」
 座席に座れず、寝台車の通路に座って何時間も座って帰京する描写が良かったです。昔の長距離列車って、こんな感じだったなあ。そして物語は、お年玉をたくさんもらった子供の1万円がなくなり、生徒の中に犯人がいるかも知れないという話。あ~こういうのって小学生時代にありましたね。女の子のパンツがなくなったとか、誰かの持ち物がなくなったとか。

■#15「熱中先生と不思議な少女」
 「命っていつ生まれたの」などなど、生徒から難解な質問をぶつけられる…ありましたねえ(^^)。

■#16「孫悟空vs熱中先生」
 学芸会で西遊記をやることになり、劇団所属の生徒が主役を希望するもクラス投票で負け、馬の足をやる事に。この生徒はプライドを傷つけられ、芝居が出来ないように放課後に馬の作り物を破壊。ああ…。。熱中時代ファースト・シリーズでもっとも印象に残っている話です。

 ドラマ中に出てくるエピソードに「自分がガキの頃もこういう事あったわw」と思わされるものが多くて、小学生時代を思い出して涙が出そうでした。年長の生徒とのトラブル、モノが盗まれたときの解決方法、休み時間の遊びの種類…ああ、こんな感じだったよ。。ただ、突っ込むとしたら、この生徒のふるまいって3年生でなくて1~2年生ぐらいかな?3年生だともうちょっとひねくれていた気がします(自分比)。
 というわけで、17話から最終回までの感想は、また次回!


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TVドラマ『熱中時代』ファースト・シリーズ#1 1~8話 水谷豊主演

Necchuujidai_Title.jpg 1978-79年にファーストシリーズ2クールが放映されて一世を風靡、80-81年にセカンドシリーズ3クールが放送された、水谷豊主演の学園ものテレビドラマです!このドラマが放送されていた頃、僕は小学低学年でしたが、夢中になって観ていました。面白かったなあ。。
 70年代生まれの僕にとって、学園ドラマは『ゆうひが丘の総理大臣』と『熱中時代』が最高傑作。学園ものテレビドラマといえば高校が相場ですが、『熱中時代』は小学校が舞台。いま見直してもっとも心を惹かれたのは、この「小学校」というところでした。先生がジャージを着ていて、いたずらな生徒がいて、給食の時に机を寄せてグループを作って…ああ、自分が小学生の時もまさにこんな感じだったな。あの頃に戻りたいよ。
 というわけで、久々に全話を見直して、面白かったエピソード(ほとんど全部なんですけどね^^)の簡単な感想を書いていこうかと。全3回、今回は1話から8話まで、早速いきます!

■#1~2「オレが先生と呼ばれる日」「熱中先生最初の失敗」
 就職浪人していた北野広大(水谷豊)が、教員に欠員が出た小学校に赴任する話です。いくつかの話が並行して進みます。教員になる直前に痴漢と間違われ、よりによって痴漢に勘違いされた相手が、強引に下宿させられる事になった校長先生の家で一緒になる女教師・桃子(志穂美悦子)。さらに、跳び箱を飛ばないと拒否する生徒に、無理やり跳び箱を飛ばせるとその生徒が捻挫してしまい…。
 学校に絡んだ話ではあるものの、シリーズを通して一貫して言いたい事があるドラマではなく、1話完結で見終わった後に爽快感の残る話のオンパレードなドラマ。最初の1~2話なんてその典型でした(^^)。
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NecchuuJidai_ep3.jpg■#3「UFOと謎の男の正体」
 校長先生の家にやはり下宿している、校長先生の義理の弟が、望遠鏡でUFOらしきものを発見。それを北野が生徒たちに話すと、生徒たちは夜に家に帰らず、先生が言っていた場所まで行ってUFOを探し…
 こうやって書き出してみると何てことないですが、見ると爽快だし最高に面白い!これって、水谷豊が演じるさわやかな先生の立ち居振る舞いが良い面もあるのだと思います。自分が悪いと思えば躊躇なく謝るし、謝る時は大きい声で、頭を深く下げて謝る…さわやかじゃないですか!こういう振る舞いって大人になっても出来る人は意外と少ないし、勉強になります。総理大臣になってすら絶対に謝らない人だっていましたしね。あと、70年代末の井の頭線や下北沢近辺が見れるのも良かったです。

■#4「ああ! 聖職者のケガ」
 授業で生徒たちと高尾山に行く約束をしてしまう北野。しかし反対する親もあって、行く子と行かない子が生まれ、まずい展開に。そこで北野は足をくじいて行けなくなったと嘘をつくが、生徒たちが先生の下宿先までお見舞いに来てくれて、千羽鶴を貰って、北野は良心の呵責に責めさいなまれ…。
 新任教師、さすがに最初は失敗が多いでね(^^)。でも、それが生徒たちを思ってのことだというのが、ドラマをあたたかいものにしてるのだと思いました。

■#5「ぼくの先生はフィーバー」
 北野と桃子は、下宿先の校長先生の息子・いくみが女友達を部屋に止めたのを目撃する。いくみのクラスメイトの家出少女だが、口止めのためにいくみは二人をディスコに誘い出して写真を撮り、それをネタに口止めを迫る。しかし北野は堂々と「見せたきゃ見せろ」と啖呵を切り…
 要するに、北野先生と桃子先生が心理的に近づくエピソードです。このへんで、このドラマのヒロインが志穂美悦子だと分かってきました…ここまで気づかなかった子供のころの僕の鈍さって(^^;)。。

NecchuuJidai_ep6.jpg■#6「熱中先生子連れ旅」
 北野の生徒のひとりが、宿題をやってこない。わけを聞くと、片親の父が仕事から帰って来ず、ごはんも食べられずに勉強どころではないという。事情を知った北野はふたりにご飯を食べさせ、ようやく帰ってきた親に掛け合うも…
 またしても北野先生のやる事は教師の権限をはみ出していますが、でもそれは生徒を思っての事。現代で実際にやったらまずいけど、見ていて最高に心があったかくなりました(^^)。

■#7「熱中先生二ヵ月目のピンチ」
 教師になって2か月。生徒の親から軽く見られ、自分が担任をしているクラスを「ダメクラス」と呼ばれ、北野はストレスから胃を悪くする。また、3年生担当の教師間で、体罰が是か非かの議論が交わされる。そんな中、ふとしたきっかけで北野が「僕は教師に向いてない、やめた方がいいのでは」と弱音を吐くと、校長が来たのを張り倒して説教する。
 これもいい話でした。でも今だと、これもアウトだろうなあ。。

■#8「危険な関係プレイバック」
 給食費を払えない生徒や、夜の仕事をしているために子供に朝ご飯を作ってやれない母親などのネタを軸に、北野先生と桃子先生がまたちょっと親密になる話。でも、アクション抜きの志穂美悦子って違和感があります。そして、自分が志穂美悦子を初めて意識したのって、熱中時代だったんだと気づきました。キカイダー01のビジンダーと桃子先生が同一人物とも思ってなかったなあ(^^;)。

 正直に言うと、自分が小学校低学年の頃に観ていた時ですら、くさい部分があるドラマと思ってました。僕が少しマセていたのかも知れませんが、事熱中時代に関してはクサいぐらいでちょうど良かったのかも。実際、昔はクサいと思いながらも大好きで観ていたわけだし、僕みたいな擦れたガキは、こういうクサい物語を通して善意や良心を学べたのかも。というわけで、9話以降も観るのが楽しみです(^^)。。


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『Steve Lacy / Solo - Théâtre Du Chêne Noir』 『Weal & Woe』

Steve Lacy Weal and Woe 間章さんが熱烈にプッシュしたことがあるので、日本ではスティーヴ・レイシーのアルバムの中ではかなり有名なものじゃないでしょうか!『Solo - Théâtre Du Chêne Noir』は1972年のライブ録音で(リリースは74年)、スティーヴ・レイシーのソロで、これが大元。『Weal & Woe』はそのCD化に際して、『Solo』全曲に、73年録音『Crops & The Woe』のB面『The Woe』3曲すべてを追加収録したもの。というわけで、アナログ盤にこだわりがないなら、CD『Weal & Woe』を買う方が良いかも。僕はCDの方を持っています。

 大元になった『Solo』は、72年8月に行われた、フランスのアヴィニョンにある「Théâtre Du Chêne Noir」というシアターでのライブで、ソプラノ・サックスの独奏。5分前後の曲が全8曲演奏されていて、フリー・インプロヴィゼーションではなく、どの曲と色々なテーマが設けられていました。メチャクチャに吹きまくっているだけという演奏はひとつもなく、けっこう理性的。
 CDにはスティーヴ・レイシー自身の各曲解説がついていて、たとえば1曲目「TAO」(この曲はレイシーの曲の中でもけっこう有名)は、「老子の『TAO』の言葉をつかった6つの曲のなかのひとつ」とか、「Josephine」は「カフカの戯曲から着想を得たもの」とか。「Stations」は、ラジオを流しながらサックスを演奏していましたが、なるほどこれは面白かったです。
 ただ、アイデアやデザイン3、即興7ぐらいの割合の音楽なので、練習を聴いているようでもありました。たとえばフラジオを多用する曲あたりは、それが音楽的に聴こえるよりも特殊奏法の練習に聴こえてしまう、みたいな。このへんは聴く側の器量もあるのでしょうね。僕、あんなに熱中したジョン・コルトレーンのアドリブが練習にしか聴こえなくなってしまった時期がありましたし、数年置いて聴いたらまったく違う聴こえ方をするのかも。

 『The Woe』は73年1月に行われたチューリッヒでのライヴ。5重奏団による演奏で、メンバーはレイシー(s.sax)、スティーヴ・ポッツ(a.sax)、イレーネ・アエビ (cello, voice)、ケント・カーター (b)、オリヴァー・ジョンソン (dr)。いつぞや日記に書いた79年スイスでのライヴ『The Way』と同じメンバーでした。演奏は3曲。
 1曲目「The Wax」は曲のヘッド部分で書き譜、そこから繋がる「The Wage」はオープン・パ。ここソロ・オーダー順の即興ではなく、グループ・インプロヴィゼーションでした。演奏に銃撃音や爆撃音なども同時に流されていて、音楽自体で構造を示したり純音楽を作るのではなく、爆撃音の模倣やセンスの混沌とした状況を音で表現しているかのように感じました。ちなみにレイシーの解説によると、これはベトナム戦争を意識したものだそうです。
 続く「The Wane」は、まるでチコ・ハミルトン楽団の音楽のようなエキゾチックなジャズ。最後は繰り返される詩の朗誦をベースにした音楽。つまり、『The Woe』3曲は、すべて違う視点から作られた音楽で、この対比がすごく面白かったです。

 このあたりまで来ると、スティーヴ・レイシーって、管楽器でのアドリブを追及しているだけでなく、音楽という大きな創作物を生み出しに行っているように感じました。というわけで、僕にとってのスティーヴ・レイシーはヨーロッパに渡って以降。それまでだって、バップをやってもどこかにニュージャズ色を感じるような、良い管楽器奏者だと思っていましたが、やっぱりこのあたりからがアーティストとしてのスティーヴ・レイシー物語の始まりだと思っています。


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『Steve Lacy / Lapis』

Steve Lacy Lapis 1971年リリース、ジャズ系のソプラノ・サックス奏者スティーヴ・レイシーのアルバムです。リリース元は、なんとフランスのサラヴァ。昔のフリージャズ系のレコードって、「さすがにこれは無しだろ」というほど極端に音の悪いものが普通にあったりしますが、さすがサラヴァ、このレコードは音が良かったです。ちなみに僕が持っているのは、『Scratching the Seventies / Dream』という3枚組CDで、この中にサラヴァからリリースされたレイシーのアルバム全5枚が入っていました。これって今となっては超お宝CDじゃなかろうか。見かけた時に買っておいて良かったです(^^)。

 スティーヴ・レイシーひとりの演奏でしたが、オバーダビングされていて、音がサックス独奏ほどには寂しく感じなかったです。そして、アルバム全体が、音で作ったショートショートみたいでした。

 冒頭は、6曲の組曲「TAO」の中の3曲。銅鑼がダビングされていて、ソプラノ・サックスとパーカッションの2重奏のように感じました。
 「The Highway」もダビングが施され、サックス3重奏のうしろで自動車の通り過ぎる音がブンブン聴こえる状態。テーマは同じ音の高さで「ポポポポポポ」となっていましたが、これって車のクラクションとか、そういうのを表現しているのかな?
 「The Cryptosphere」は、古いジャズのレコードが後ろで聴こえている前で、サックス咥えて息の音をずっと吹き込んでいる、みたいな。
 「Lapis」は、サックスを何本もダビングして、ミニマル・ミュージックみたいになったテーマのうしろで電話のベルが鳴っていて、そこからアドリブ・パートに突入。ほとんどフラジオで高速で演奏するこのアドリブがなかなか良かったです。
 「The Precipitation Suite」は連続した3曲の組曲。これもダビングでサックス4重奏ぐらいな感じ…とはいえ、アンサンブルしているようなしていないような感じのもので、そのへんはフリージャズだな、みたいな。スタッカートだけで構成されているとか、それぞれの曲にお題目があるようでした。
 「Paris Rip-Off」は、左右から独特なリズムのハンドクラップ(かなり下手なんですが、これってわざとなんだろうな、とは思いました)が聴こえるセンターで、サックスが即興演奏する形。フランス録音なので、パリの印象を音で表現したのかも。って、レイシーはこのへんからパリを拠点に移す事になるんですが。

 こんな感じで、即興性の高い音楽とはいえフリー・インプロヴィゼーションではなく、どの曲もデザインされていました。ただ、どの曲も、ひとつの曲の中で大きく展開する事もなければ、大きなクライマックスに達する事もなし、1曲1アイデアでした。道教があって、自動車社会があって、電話が鳴って、ラジオからジャズが流れてくるので、現代の都市生活を音で表現したコンセプト・アルバムなのかも知れません。こういうアイデアは面白かったんですが、いかんせん音が寂しい、作曲も演奏も雑で、作るならもっとしっかりしたものを作ればいいのに、というのが正直なところ。
 フリージャズ系の音楽って、こういう所の詰めが甘々なものが多いんですよね。普通だったら、リズムが悪かったら何回も練習するなり録り直すなりするもんだと思うんですが、この状態で大ちゃうのかよ、みたいな。間章さんなど、これ系の音楽を信奉している人たちの批評を読むと、そういう所をマジカルに感じているように感じる時があるんですが、実は若い頃の僕もそうだったのかも。「なんだこれは」と理解できない所に、何か深いものがある気がしたんですよね。でも今これを聴くと、雑だから複雑な形になって残ってしまっただけなのかもしれないと感じてしまいました。


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『Steve Lacy / The Forest and the Zoo』

Steve Lacy The Forest and the Zoo 1967年リリース(録音は66年)、ソプラノ・サックス奏者スティーヴ・レイシーのピアノレス・カルテットの演奏です。メンバーにエンリコ・ラヴァ (tp) やルイス・モホロ (dr)などで、ブエノスアイレスでのライブでした。

 レーベルはESP、特に何も決めずに演奏したセッション風のフリージャズといった音楽でした。ドラムとベースは全体の音楽に反応していくわけではなくてビートを刻んでいて、その上でレイシーとラヴァがパラパラと吹いている状態。いやあ、こういうなんでもないセッションでライブをしてしまうのも何だと思うし、これをレコードにしてしまうのもどうかと思うなあ。。

 僕の好きなスティーヴ・レイシーって、もう少し後のヨーロッパに渡ってからの、きちんとスコアを書いて独自の音楽を作るようになってからです。一方でこのアルバム以前はセロニアス・モンクの曲をやるような、ちょっと風変わりのハードバップなので、フリージャズやフリーインプロヴィゼーションへのセッションへの参加が目立つこの時期は過渡期だったのかも知れません。この時期がけっこう有名なので、フリージャズの人と思われがちではあるけど、スティーヴ・レイシーってもうちょっと違う人だと思っています。


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『Steve Lacy with Don Cherry / Evidence』

Steve Lacy with Don Cherry Evidence 1961年録音、ドン・チェリーを含むスティーヴ・レイシーのピアノレス・カルテットの演奏です。ピアノレス・カルテットで、2管の相方がドン・チェリー、そしてドラムがビリー・ヒギンスと来れば、もうこれはオーネット・コールマンを想像するなという方が無理 (^^)。ただ、なにせフロントがスティーヴ・レイシーなもんだから、本家オーネット・コールマン以上のクオリティに仕上がっていたのがすごかったです。レイシーってやっぱり凄い人なんだなあ。

 オーネット・コールマンのカルテット自体がそうですが、ピアノレスでバップ直系の音楽を演奏する発想自体が、音楽面での成果を上げるのだと感じました。昔、ジャズ・バンドでピアノを演奏していた僕が言うのもなんですが、ピアノがいると、どうしても「はい、この和声進行の枠に沿って演奏してくださいね」となってしまいがちに感じます。音楽能力の高いプレーヤーがひとつのバンドで長く共演しているなどの事情があって、自然とインタープレイの割合が増してくればそんな事もないのでしょうが、そうでもない限りはどうしても先に枠があって、その枠を各自埋めるかたちになってしまう、みたいな。
 ところがピアノレス2管だと、ヘッドでの管に2声アンサンブルという側面は出てくるし(とはいっても、このアルバムはオーネット・コールマン的なやり口でユニゾン率が高かったです)、オープンになって以降も、管楽器奏者はラインアドリブだけでなく和声進行も強く意識して表現する事になるんじゃないかと…そうせずにスケールだけ演奏する人もいるかもしれないけど、そうなると響きの貧しい音楽になるだけだし、オーミットする音だけの王スケールなんかでアプローチした日に半額にすらならないわけで、やっぱりある程度以上の技術が必要になるスタイルなんでしょう。ここでのレイシーもチェリーも、ピアノsレスをハンデと感じさせるような演奏は一切してませんでした。こうした楽曲全体を見据えた管楽器奏者たちの演奏自体が、素晴らしくアート。うまい例えじゃないかも知れないけど、映画って音のないサイレント時代の方が芸術性が高いと思いませんか?旋律でメロディと和声の両方を表現し、設計図のような枠も消すこのスタイルと、それを実際に演奏できるだけの能力がアートだな、みたいな。僕、管楽器を演奏できないもので、これがどれぐらい凄いことなのかは分からないんですが、想像の上だけで言えば、かなりのものと思うんですよね。

 ピアノレスという編成が、バップやフリージャズのような爆発力を奪ったようにも感じる半面、すばらしく知性的なものとして音楽を響かせた、素晴らしい音楽だと思いました。ジャズの管楽器奏者って、絶対にピアノレスのバンドを体験しておくべきだと思いました。そうしたら、スケール頼りでバラバラ吹くだけの演奏なんて絶対にしなくなるんじゃないかなあ。
 優秀なプレーヤーのその先、アーティストとしてのスティーヴ・レイシーって、ここからだったんじゃないかと思います。ここからのスティーヴ・レイシーのレコードは傾聴に値するもののオンパレード。若い頃は、中古盤で見つけるたびに、見境なく買いこんで聴きまくったものですが、ここからのレイシーには傑作が多いです!


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Steve Lacy “Reflections” を聴き直して思った、手のひら返しの素晴らしさ

SteveLacy_Reflections.jpg 久々に、ジャズ系ソプラノ・サクソフォニストのスティーヴ・レイシーのアルバム『Reflections』を聴きました。昔はあまりいいイメージを持たなかったのですが、実にいいアルバムに感じてしまって、良く回る自分の手首に父ちゃん涙が出てくらあ。でも、手のひら返しって良い面もあるのかも。自分の言葉に執着して、いつまでもかたくなに「あれは○○だから悪い」という人よりはるかにオープンマインドでいいじゃないですか!もっと言えば、相手の価値観に耳を貸す事のできる手のひら返しは、世界平和への第一歩といっても過言ではありません。もちろん、最初から手のひらが返らないように配慮しておけるのが理想ですけど。。

 なんでもそうですが、悪い所なんて誰だって見つけられます。「ここが下手だ」「ここでミスしてる」でいいんだったら、ニワカにだって言えます。ところがいい所を摑まえるのは、はるかに難しい事だと思います。野球やボクシングのように、ある程度まで価値を数値化して測る事のできるものならまだしも、いろんな価値観の上に成り立っている絵画や詩や音楽なんて、余計にそう。浄瑠璃とロマン派音楽とマカームを同じ定規で測ろうとするのは滑稽というものです。でも最初からいろんな定規を持っている人なんていないわけで、理解するってことは、新しい道具を自分が獲得する必要があるという面もあるんでしょうね。

 昔ある舞台裏で、日本のロックバンドのウ〇〇〇ズのヴォーカルが、ワールドミュージックを小馬鹿にしているのを耳にした事があります。要約して言えば、音楽はハート、ワールドは古くさいしダサいし宗教くさい、など。あの人の音楽を聴いて、音楽はハートだという理由は分かる気がするのですが、そんなのは音楽の一部もいい所。じゃ、音楽の作曲的な部分はハートなのでしょうか。突っ込めばいくらでも言えるわけですが、ひとつの物差ししか持っていない人、いま自分が持っている以外の物差しに心を開けない人、自分以外の尺度がある事にいつまでも気づけない人だと、色々なものの「いい」を理解するのは難しいと思います。だから、かつて理解できなかった「いい」部分に気づくことが出来たのは、自分の精度があがったのかも知れないし別の物差しをゲットできたという事かも知れないので良きこと哉…すっごい自己弁護ですね(^^;)。。

 というわけで、昔の記事に追記しました。宜しければご笑覧ください!

http://cdcollector.blog.fc2.com/blog-entry-221.html


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『Steve Lacy / Soprano Sax』

Steve Lacy_SOPRANO SAX 1957年録音(リリースは58年)、ソプラノ・サックス奏者のスティーヴ・レイシーの初リーダー・アルバムです。メンバーは、レイシー (s.sax)、ウィントン・ケリー (p)、ブエル・ニードリンガー (b)、デニス・チャールズ (dr)。このメンツなので、最初はピアニストを入れ替えたセシル・テイラー『Jazz Advance』と思ってしまった僕でしたが、実際にはハード・バップのセッションという色が強く、「Day Dream」「Alone Together」といったジャズ・スタンダード満載でした。
 それでもモダン・ジャズっぽく聴こえないのは、ツーファイブでのオルタードがきつくないから、チャーリー・パーカー以降よりもディキシーランド・ジャズあたりのサクソフォニストの演奏に近く聴こえるから、なのかも。そんなこともあって、百戦錬磨でジャズ・ミュージシャンではなく、ブラスバンドでもアメリカのアーリータイム音楽でもなんでも演奏してきたアメリカ人管楽器奏者が演奏したジャズ、みたいに感じました。

 僕にとってのスティーヴ・レイシーは、作曲と即興の両方を使って独自の音楽を創りあげていった時期に大ハマりした事があるだけに、その時期の印象が強いですが、デビューしてすぐのレコードはアメリカ音楽全般を演奏していたオーソドックスな人に聴こえました。その中に見える個性は、セロニアス・モンクに通じるエキセントリックさやフレージングをたまに感じる事と、時おりすごく速い指さばきが出てくるあたり。

 でも実際のところは分かりません。プロが演奏するエンターテイメント音楽であるジャズという枠で活動を始めた以上、共演者との共通言語になるステレオ・タイプのジャズからスタートする以外にはないわけですし。僕はある時期のスティーヴ・レイシーが大好きで、彼がインタビューに答えたものもいくつか読んだ事がありますが、そういう所から判断すると、レイシーの音楽観がこのレコードの音楽にきちんと反映されていたのかは疑問。あくまでハード・バップの「ヘッドを演奏したらソロ回し」という様式の中での個性を楽しむ音楽なので、その枠での演奏の個性や技術や主張を楽しめる人には、多分すごく面白く感じるアルバムだと思います。でも、もっと曲を含めた音楽自体に個性や独自性を求める人にとっては、個性が弱く感じる音楽かも知れません。


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『マーラー:交響曲《大地の歌》 バーンスタイン指揮、ウィーンフィル』

Mahler_Daichinouta_Bernstein.jpg マーラーが交響曲8番9番の間に書いた、番号が付けられていない交響曲「大地の歌」です!この曲、ふたりの独唱者が入っていてずっと歌っているので、聴いた印象だとオケ伴奏の歌曲のようにも聴こえました。この演奏での独唱者はジェームス・キング(テノール)とフィッシャー・ディースカウ(バリトン)でした。

 「大地の歌」は6楽章すべてに詩がついてます。そして、詩のタイトルが「現世の寂寞を詠える酒宴の歌」、「秋に消え逝くもの」「告別」なんていうクソ暗いものと、「青春について」「美について」「春に酔えるもの」なんていう明るいものに分かれてました。
 この気持ち、僕もタナトフォビアの気があるもんだから、分かる気がしました。マーラーは死を非常に恐れていた人で、しかも狭心症で自分に死が迫っているのを感じていたもんだから、つねに生死について深く考えざるをえなかったんじゃないかと。死んで、今こうやってものを考えている自分じたいが消滅してしまう恐怖と言ったらありません。死ぬの反対、神様助けてヘルプ。で、こういう気持ちがひっくり返って、生とか青春とか春とか、そういうものへの愛情とかリスペクトが凄い事になっていく、みたいな精神構造なんじゃないかと勝手に思いました。…それって自分自身の事でもあるんですけどね(^^;)。

 僕がマーラーを聴いていて思うのは、マーラーの音楽は仮に詩がついていない曲であっても、背景にこういう詩や思索ありきの音楽だったのだろうと感じます。あくまで言葉で語れるような物語が優先していて、そこに音楽がつけてあるもの、みたいな。そもそも、音そのもので完結した構造にしてあるとは思えないんですよね。音楽的には無駄としか思えない楽章だけど、もしこれが物語の上で○○を語るのであればたしかに省けない楽章かもな、みたいなことが普通にあるんです。そういう特徴が、詩がついている「大地の歌」だと凄くわかりやすかったです。音楽は叙景的だし、何か音で描いている音楽以外のものがある感じ。詩で言うと、この曲の最終楽章の詩の最後がいかにもマーラー的。絶望した人の物語の後に、こんな言葉がつきます。

 しかし春になれば愛する大地は再び至る所花が咲き乱れ、木々は緑に覆われ、永遠に、世界の遠き果てまでも青々と輝き渡る、永遠に、永遠に

 『千人の交響曲』の最後に引用されたゲーテの詩と似ていますが、マーラーは世界をこう切り抜く事で、自分が持っている厭世観を振り払おうと思っていたんじゃないかと。でも、後期ロマン派の時代はすでに機械文明、神も死に、世が殺し合いで覆われる大戦やペシミスティックな実存主義の時代はすぐそこ。死の問題の克服は現代人の僕たちと共通ですが、だからマーラーを聴くと「その先を知りたいんだろうな」と思っちゃったりして。そうやって僕は実存主義以降の西洋思想にハマっていったのでした…あれ、マーラーの話じゃなくなっちゃったな(^^;)>。。


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『マーラー:交響曲第8番《千人の交響曲》 ショルティ指揮、シカゴ交響楽団、ウィーン国立歌劇合唱団』

Mahler_Symphony8_Solti_Chicago.jpg やっぱり僕にとって究極のマーラーは「千人の交響曲」ですが、そういう人ってマーラー好きには少ないのでしょうね…。「千人の交響曲」は、以前の日記でクーベリック&バイエルン放送交響楽団の演奏について書いた事がありますが、こちらは1971年ウィーン録音のショルティ&シカゴ響による録音。ある時期まで、マーラー8番と言ったらこれ、という時代があったと思うんですが、そう言われてきただけの事はある迫力の演奏でした!

 まず、ホールの響きが豊かで、かつステレオ感が凄くて(ソプラノ、アルト、合唱などなどが右から左から飛び出して聞こえる!)、ものすごく派手な録音でした!いやーこれは音でノックアウトされてしまいそう。。ついでに、ウィーンの各種合唱団や、ルチア・ポップらといった声楽チームが、これは勇み足じゃないかというほど張り切っていてかっこいい!!
 この迫力の録音と演奏を痛感したのは第2部冒頭のポコ・アダージョの管弦のみのところと、最後の神秘の合唱に抜けた瞬間。これは息をのむ、弦のピチカートとトレモロがこれほど美しく響くとは…。大きなクライマックスから、美しいあの合唱に抜けた瞬間なんて、じわっと来ない人なんているはずがない間違いない。

 でも、1000人のオケ&合唱をまとめきれてない演奏(録音?)とも言えそうで、これを「派手でカッコいい」と取るか、「ちょっとまとまりに欠ける」と取るかで、このCDは評価が分かれそうです。で、派手好きで単純な僕は良い方にとってしまいました(^^)。だってやっぱり、「千人の交響曲」は詩とドラマが重要で、それをどれぐらいエモーショナルに伝えられるかという所だと思うんですよね。「あっちのオケに比べてこれは…」とかいう感想は、この音楽に向き合ってないと思うんですよ、比較してどれが一番いいかを選んでるみたいで。後半のゲーテの詩をどう伝えるかという点に関して言えば、ウィーンの合唱チームは素晴らしい仕事をしたんじゃないかと思いました。公演の形式からして、オケとの合わせはシカゴ響がウィーン入りしてから数回やっただけでしょうから、それでここまでもっていったのはすごい!

 実は、マーラーの8番はクーベリック&バイエルン放送交響楽団のCDだけ残して、あとは手放そうと思ってたんです。いまは考えが変わったんですが、昔はマーラーって冗長で自分とは合わないと感じていたので、リストラ候補と思っていたんですよね。ところがこのCD、久々に聴いたらあまりの素晴らしさで声も出ません。お前は何を聴いていたんだ、音楽好きなら死ぬまで持ってろこのうつけ者、と自分を叱ってしまいました。実は僕、マーラー8番のCDはさらにバーンスタイン&ウィーンフィルも持ってるんですが、それを聴くのが怖いです。それも悪くなかった記憶があるんですよ…。もしそれを聴いて「これまたいい!」な~んて思ってしまったら、CDの整理がぜんぜん進みません。今はショルティの感動に身を任せて、バーンスタインは聴かない事にしよう、そうしよう。


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シノーポリ&フィルハーモニア管弦楽団のマーラー交響曲第3番を聴きなおしました

Mahler_Symphonie3.jpg マーラーの交響曲第2番《復活》に思わず感動してしまったもので、勢いに乗って交響曲第3番ニ短調も聴きなおしてしまいました。お、ブログに感想が残ってるぞ、もうブログを書き始めた頃だったんだな…いやあ、まったく何の説明もしてませんでした。。他の方のブログを眺めていると、「最初の頃の記事はみんな書き直したい」なんて書かれているのをたまに見かけますが、まったく同じ心境です。

 しかし3番、久々に聴いてもやっぱり素晴らしかったです。2番に続いて、1日で何回リピートした事か。というわけで、昔の記事に追記しましたので、宜しければ覗いてみてください!

http://cdcollector.blog.fc2.com/blog-entry-166.html

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『マーラー:交響曲第4番 カラヤン指揮、ベルリン・フィル』

Mahler_Symphony4_Karajan BerlinPhil 1979年録音、カラヤン&ベルリン・フィルによるマーラーの交響曲第4番です。マーラーのシンフォニーの中で演奏時間が一番短いので(それでも1時間弱ある)、「マーラーの交響曲はジジイの説教なみに長いくて聴いてられないぜ」という方には、入りやすいシンフォニーかも。

 このシンフォニーも2~3番と同じように「子供の不思議な角笛」からの詞が引用されていて、「角笛三部作」のひとつに数えられていますが、毛色が違いました。2番3番が長大で色々と斬新(音響の語彙ではなく、従来のシンフォニーの伝統を外れているとか)だったのに比べ、4番は交響曲の伝統である従来の4楽章構成という事もあって、けっこうオーソドックスに感じました。
 古典派からロマン派の交響曲って、普通は4楽章で、1楽章はソナタ、2~3楽章にスケルツォかメヌエットと緩徐楽章あたりを置いて、最終楽章で1楽章と同じ主調に戻ってドッカーン、みたいなのが典型。ロマン派も後期に入った頃の作曲家であるマーラーは、こういう構成をかなりぶっ壊しているんですが、この第4番はマーラーのシンフォニーの中ではオーソドックスな方だと思いました。

 音楽は、1~2楽章はファンタジックで明るく楽しげ(とはいっても2楽章はマイナーですが)、3~4楽章はゆったりと美しく、4楽章すべて通して落ち着いた音楽に感じました。牧歌的と言ってもいいぐらいですが、どこか現実味がないというか、夢の中をただよっているような。個人的には、美しい後半楽章が好き。特に3楽章の前半が美しくて好きでした。

 月並みな言い方になっちゃうけど、ベートーヴェンでいう所の田園交響曲、ブラームスでいう所の交響曲第2番、みたいな位置の交響曲に感じました。


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『マーラー:交響曲第2番《復活》 ショルティ指揮シカゴ響』

Mahler Symphony 2 solti マーラーが童話を元に作曲した歌曲集「子供の不思議な角笛」の詞をあらためて使ったのが、マーラーの交響曲2番ハ短調「復活」です。歌詞を使ったと言っても曲全体に歌が入っているわけではなく、全5楽章の後半となる4~5楽章の一部に出てくるぐらい。ちなみに、「子供の不思議な角笛」の詞は、2番だけでなく3番と4番でも使われて、マーラーのシンフォニー2~4番は「角笛三部作」なんて呼ばれたりもしています。演奏は、8番「千人の交響曲」の迫力に感動させられたショルティ&シカゴ交響楽団。1980年にシカゴのメディナ教会でデジタル録音された録音です。

 いやいや、これは凄すぎるだろ…。まずは音のあまりの美しさと迫力に感動してしまいました。え~こんなにすごいCDだったっけ。

 まずは録音。音は太いけど透明感もステレオ音場も見事、かといってアナログのような中域の膨らんだ太さではなく、もっと自然な会場のアコースティックといった感じで、また初期デジタル録音特有のパキパキで耳が痛い感じもありません。特に「葬送の祭典」なんて呼ばれる1楽章のど迫力な演奏が圧巻…曲どうこうの前に、音の迫力にやられました。

 そして、音楽。実は僕、若い頃はマーラーがあまり好きではなかったんです。シンフォニーで言えば、音の構造面で無駄な楽章が非常に多く感じたし、またロマン派の作曲家らしく「この楽章は自然を描いたシーン、この楽章は天に召されるシーン」みたいに、音ではなく言葉で語られるようなストーリーを重視した音楽に感じて、純音楽が好きな僕にはちょっと合わないぞ、みたいな。これを言い始めたら後期ロマン派の大作曲家はみんなそうういうことになりますが、まさにそれが原因で、ロマン派音楽自体が肌に合わない、みたいな。そんな僕が、数十年ぶりに交響曲第2番を聴くと…思いっきり感動してしまいました(^^;)>前振り長くて済みませんでした。。若い頃に感じていた「これは音楽というより物語だ」という感想に変化はありませんでしたが、その物語性自体にいたく心を打たれました。
 復活シンフォニーをザックリ言えば、暗く烈しいところから始まって、牧歌的な所に行ったりしながら、最後は静謐な合唱に昇華されていく様を80分近くかけて描く、みたいな。これって人(というか、ロマン派時代のヨーロッパ人)の人生をトレースしていて、どうやったって人生の最後に来てしまう死、この恐怖を和らげる考え方を探したものではないかと思ってしまいました。
 冒頭の暗く烈しいパートや、中間の牧歌的な緩徐楽章が具体的に何か、僕には分りません。でも冒頭が厳しい人生、牧歌的な部分は人ではなく自然の雄大さ、そして最後に来る昇天は両者の融合…みたいに考えると、腑に落ちるんですよね。実際のところ、復活シンフォニーの4楽章に使われた詞には、「私は神から出たもの、再び神の御許に戻るのだ」という言葉があります。こうしたものを理屈ではなく感情に有無を言わせず訴える、みたいな。もしかするとロマン派って、詩も絵画も音楽も、当時の人間主義的な視点の中で、どうやれば死という恐怖を受け入れられる理屈が成り立つのか、という戦いだったのかも知れません。

 マーラーって10曲近くシンフォニーを書いているので、どうしても「1番が」「いやいや3番が」みたいに、トータルで捉えたくなってしまう所が僕にはあります。でも復活シンフォニーはこれひとつで完全なもの、他のことなど考えずにただこの見事な作品に聴き入るだけで充分でした。素晴らしい、聴き終わって少し時間がたってるんですが、まだちょっと震えてるんですが…。


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『マーラー:歌曲集《子供の不思議な角笛》 ルチア・ポップ(sop)、アンドレアス・シュミット (bari)、バーンスタイン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団』

Mahler_Kodomo no fusigi na tsunobue_Bernstein Luca Pop マーラーの歌曲集の中でいちばん有名なものではないでしょうか、「子供の不思議な角笛」!もともとは「ドイツのマザーグース」なんて呼ばれるほど有名なドイツ民謡集で、これに感動したマーラーがその中のいくつかの物語に音楽をつけて歌曲化したものだそうです。版によって曲数が様々で、だいたい10曲から14曲ですが、このCDは13曲収録でした。

 マーラーは交響曲もそうですが、この歌曲集も、音楽が音楽として最良の構造をとっているわけでなく、物語の展開によってシーンが変わっていく感じ。劇伴チックですね。ベートーヴェンのソナタのように音楽そのものの構造が完璧なわけじゃなくて、まるでオペラみたいでした。ソプラノとバリトンが掛け合いになったりしてましたし。というわけで、音楽自体はシンプルでした。

 ただ、話が面白かったです!なるほど、ドイツのマザーグースと言われるのも伊達じゃないなぁ。例えば「番兵の夜の歌」は男と女が会話している形なのですが、これ、番兵の頭の中での想像なんだそうで、そんな事を考えているうちに番兵は撃たれて死亡…なんだこれ。「少年鼓手」は、絞首台に連れて行かれる少年の歌で、その間に少年は岩や風や人に別れを告げます。「この世の生活」は、子供が母親にパンをねだりますが、パンが焼きあがった時には子供は餓死。こんな感じで、ひとつひとつの歌がまるでアンデルセン物語の短編小説のようで、面白かったです(^^)。

 演奏ですが、さすが全員有名人、うまかったです。2曲目「誰がこの歌を作ったのか?」でのルチア・ポップのコロラトゥーラなんて見事でした!録音もすごく良くて、歌手の声はきれいに通る、オケも清潔な感じ、それでいてホールの響きも十分ですごくリッチ!

 僕自身が、絶対音楽として音楽を聴いてしまう傾向にあるもんで、マーラーどころかロマン派音楽ともいまひとつそりが合わないんですが、でもロマン派って話が面白いので、若い頃よりは楽しめるようになってきました。こういう物語を音楽にするなら、音響だけの構造だけでいい構成を取るのは難しいだろうから、こうなるべきものだったんだろうな、みたいな。


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『Hot Tuna』

HotTuna.jpg 1970年リリース(69年録音)、ジェファーソン・エアプレインの中心メンバーだったヨーマ・コウコネン (ag, vo) とジャック・キャサディ (eb) が作った別グループ「ホット・ツナ」のデビュー・アルバム、ライブ録音です。このデュオって最初は余興で、ジェファーソン・エアプレインのオープニング・アクトとしてチョロっと演奏していたそうですが、それが評判を呼んだんでしょうね。音楽はブルースやラグタイムなどの、アコースティックなアメリカン・ルーツ・ミュージックで、この演奏が素晴らしかったです!!

 マジか、ヨーマ・コウコネンのアコースティック・ギターがメッチャうまいんですけど。それに絡むベースも、ルート押さえるだけなんてものじゃなくて、ギターに絡んで音楽をおいしくしていました。ふたりとも、ジェファーソン・エアプレインでのあのショボい演奏は何だったんでしょうか(^^;)。こんなにうまいなら、最初からやってくれよ。。

 これだけうまいのにテクニック志向ではなく、取り上げているカントリー・ブルースやラグタイムのレイドバック感覚を失わず、センスも表現力も抜群。選曲も素晴らしかったです。作者不詳のアメリカン・トラディショナル、リロイ・カー、ゲイリー・デイヴィス牧師、ジェリー・ロール・モートン…いやいや、思いっきり通好みじゃないですか。ラグタイムやアーリータイム・ジャズで有名なジェリー・ロール・モートンの音楽を僕が初めて意識したのって、このアルバムなんですよね。もしこのアルバムを聴いていなかったら、あんなに素晴らしい音楽を一生聴いていなかったかもしれないと思うとゾッとします。それはゲイリー・デイヴィスも同じ。そして最後に自作インスト…カッコよすぎます。抱かれてもいい。

 ジェファーソン・エアプレインは、ファースト・アルバム『Jefferson Airplane Takes Off』で、アメリカン・ルーツ・ミュージックに沿った音楽もやっていたので、時代がロックやサイケデリックに走らなければ、意外とこういう方面に進んでいたのかも知れませんね。ホワイト・ラビットあたりのショボい演奏をジェファーソン・エアプレインの実力と思ってはいけません。ジェファーソン・エアプレインで絶対に聴かなきゃいけないアルバムは、『Bless Its Pointed Little Head』と、これ。アコースティックなホワイト・ブルースの大名盤ではないでしょうか。大推薦です!


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『Jefferson Airplane / Bless Its Pointed Little Head』

Jefferson Airplane Bless Its Pointed Little Head 邦題『フィルモアのジェファーソン・エアプレイン』、1969年発表のジェファーソン・エアプレインのライブ・アルバムです。RCAでの最終作にして、初期ジェファーソン・エアプレインの集大成…とか言って、これまでのアルバムに入っていない曲が半分を占めてる意欲作でもあるんですけどね(^^)。中心メンバーがホット・ツナという別プロジェクトも始め、ジャニス・ジョプリンジミ・ヘンドリックスジム・モリソンという自分たちと同胞だったサイケデリック・ロックの盟友が相次いで死に、バンドも「こんな生活やドラッグ・ミュージックを続けてていいのか」と思い始めてもいたそうで。僕的にはこれがジェファーソン・エアプレイン最高傑作、しかもダントツです!

 このアルバムを買ったのは中学生の時。サイケデリック・ロックが大好きだった僕にして、その中心グループのひとつだったジェファーソン・エアプレインは下手だからイマイチと思ってたんです。ところがこのライブを聴いて、「マジかよ、演奏うまい!音楽かっこいい!」と度肝を抜かれたのでした。冒頭のドラム・ソロからしていきなり素晴らしいですからね(^^)。

 作曲センスも抜群。特に「Fat Angel」と「Bear Melt」には、曲とはコーラスを何度も回すリート形式、調とは長調か短調という、僕が持っていた音楽の固定観念を吹っ飛ばされました。
 「Fat Angel」はリディアンで書かれて同じところをグルグル回るような曲そうですが、これはインド音楽的な雰囲気を醸し出していて、SEやエフェクターではなく作曲できちんとサイケを表現したその音楽能力に脱帽でした。これ、本当に素晴らしいなあ。瞑想も視界に入ったLSD文化ってインドにも目が行っていましたが、そのへんの意識もあったんでしょうね。
 そして終曲「Bear Melt」は、ドアーズ「ジ・エンド」アイアン・バタフライ「IN-A-GADDA-DA-VIDA」のエアプレイン版とも言えそうな長尺の曲で、ダークかつ劇的。陰鬱な詞と曲が終盤でアッチェルしていって…あ~これは素晴らしすぎ。アメリカン・ソングフォームのオンパレードだったロックやポップスばかりしか知らなかった中学生の僕は、思いっきりやられました。

 アレンジも良かったです。初期のスタジオ録音では「バンドアレンジがショボすぎるな」と思っていたのが、バスラインはカッコいいしギターが歌メロの絶妙なカウンターラインを作るし、バンド・アレンジが絶品。
 あいかわらずグレイス・スリックは歌が下手ですが(^^;)、でも彼女がいない状況を想像すると、それはそれで何かが足りない気がするので、彼女は下手であってもバンドにエキセントリックさやヒッピー生活という意味をバンドに付加するいい役回りだったのかも。グレース・スリックって、当時のバンドメンバー全員と肉体関係を持っていたそうですしね(^^;)。エロい、エロいぞ。

 はじめて聴いた時からもう35年以上たってますが、これはいまだに愛聴盤。飽きた事もなければ、いま聴いてもなお新鮮な感動を覚えます。ジェファーソン・エアプレインをシュールな枕あたりしか聴いてない人にはぜひ聴いて欲しいアルバムで、ある意味でサイケデリック・ロックの行き着くべき先と、その終焉を感じさせもした超名作と今でも思っています。『Surrealistic Pillow』でジェファーソン・エアプレインを聴いた気になっているうちはまだ青い。これこそジェファーソン・エアプレインの最高傑作、必聴です!


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『Jefferson Airplane / Volunteers』

Jefferson Airplane Volunteers このアルバムは完全にジャケ買いでした(^^;)>。学生時代、このレコードはなかなか見かける事がなかったんですが、中古レコード屋で発見した途端に「ジャケットのデザインめっちゃカッコいいじゃん!」と感動して買ってしまったのです。というわけで、1969年発表、ジェファーソン・エアプレインの5枚目のアルバムです。

 曲は、セカンド・アルバム『Surrealistic Pillow』なみに個性を取り戻し、演奏は3rd~4thアルバムぐらいのレベルまで来た感じ。音だけで言うと、アメリカン・サイケのヤバく危険な香りはあまりなくて(シリアスな雰囲気の曲自体はあり)、共同生活をしているほどよくヒッピーで自由で健全なロックという印象でした。カントリー・ロックっぽい明るい雰囲気の曲も入っていて(タイトルが「農場」…いいなあ)、ホッコリする場面もしばしば。ただし、つねにアドリブを許されているエレキ・ギターだけは「うるせえよお前」といいたくなるほどずっと弾きまくっていて、これが実は重要な意味を持っている気がしたり。というのは…

 このアルバム、革命を煽ったり反戦的であったりと、けっこう反体制的な詞がついていて、実際のところ当時は物議をかもしたんだそうな。アルバム・タイトルも当初は「Volunteers of America」(アメリカ義勇軍)だったそうですし(これは曲「Volunteers」の詩に出てきて、反体制となって革命を起こす市民を「アメリカ義勇軍」としている)、よく見るとジャケットのアメリカの星条旗も破れてますし。つまり、戦後の赤狩りや当時のベトナム戦争の泥沼というアメリカの方針を批判し、かつての開拓者精神にあふれたアメリカへの回帰を謳ったプロテスト・フォーク的な音楽だったのかも。そう考えると、このバンドがフラワー・ムーヴメントやヒッピー思想という西海岸ロックの中心にいたのも分かる気がしました。エレキ・ギターが暴れまわるのはこの改革や批判の精神、ほんわかしているのは古き良きアメリカへの回帰を示しているのかも知れません。

 まあでも、いま聴けば普通の60年代ロック…かな(^^;)。。サウンドこそロックだけど、内容はピート・シーガーあたりが活躍した時代のアメリカのフォークと思いました。サードからフィフス・アルバムまでは大同小異で、どれかを気に入るならみんな気に入るだろうし、合わないなら全部合わなそう。そして、このアルバムを最後にジェファーソン・エアプレインのリーダーだったマーティ・バリンが脱退、ヨーマ・カウコネン(vo, gtr) とジャック・キャサディ(eb) は新グループのホット・ツナに走り、ここでフォークでカントリーでサイケで反戦ロックだった初期ジェファーソン・エアプレインは崩壊。でもバンドの歴史はまだまだ続き、この後に出たライブ・アルバムが僕が思うジェファーソン・エアプレインの最高傑作となったのでした。その話はまた次回!


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『Jefferson Airplane / Crown Of Creation』

Jefferson Airplane Crown Of Creation 1968年発表、ジェファーソン・エアプレイン4枚目のアルバムです。核爆弾のきのこ雲をあしらったジャケットはインパクト大。このジャケットの時点で、どういうアルバムなのかは大体見当がつくんじゃないかと。その想像は多分当たりです(^^)。

 音楽の傾向はサード・アルバム『After Bathing At Baxter's』と同傾向。ただ、こっちの方がポスト・プロでのギミックを駆使したサイケ色が減って、反戦や政治批判といったカウンター・カルチャー色が増しているように感じました。それに引きずられたか、やや大人しめの曲が多かったです。
 詞は引き込まれるものがあって、直接的ではなく比喩になっている所が多く、そこに深さを感じたりして。「ああ、ここでいう泡って核爆弾のきのこ雲の事なんだろうな」みたいに想像して聴いていると、考えさせられることが多かったです。68年と言えばベトナム戦争が泥沼化した時代でしたしね。仮にそれが商業主義的な理由だったにしても、市民やアーティストがそういうものに反対や批判をおこなえること自体が、アメリカ社会の健全な所なのかもと思ったり。ほんの少し前の日本だったら、少しでも政治的意見を言おうものなら、その意見の正当性なんて度外視して相手を誹謗中傷して口を封じようとする状況でしたからね。

 ただ、音楽的には、詞を重視する姿勢が裏目に出たきらいも感じました。アルバム前半のしっとりした曲のサウンドはクールでカッコよかったですが、いかんせん曲がつまらないのです(^^;)。曲って音の要素を有機的につないで構造化していくものだと思うんですが、オーバーに言うと詞とコード進行しかない作りなんですよね。詞とコードだけだとしたら音楽的な頼みの綱はメロディですが、それも旋律論の理に適ったものではないので、ただ音が上がったり下がったりを繰り返しているだけに聴こえてしまいました。これじゃいけませんぜ、奥さん。

 音はバンドサウンドだけど内容はフォーク、そういう印象を受けたアルバムでした。というわけで、詞に注目したら内容だけでなくメタファーの使い方などにも魅力を感じるいい作品。でも音だけを聴いたら肌触りは悪くないけど今一歩のアルバムでした。あ、でも冒頭3曲はボブ・ディラン以前のフォークの匂いをそのままモダン化したようななかなかのサウンドなので(「Leather」のサウンドなんて最高。そうそう、この曲も詞が素晴らしい)、一聴の価値はあるかも。


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『八代亜紀 / 夜のアルバム』

YasiroAki_YorunoAlbum.jpg 2012年リリース、八代亜紀初のジャズ・アルバムです。ジャケットにはヘレン・メリルダイナ・ワシントンと同じ「EmArcy」のロゴにノイマンの47Tube。思いっきり50年代ジャズを意識したデザインでカッコいい…けど、日本語のフォントと色の選択がダセえ、これはアメリカ制作に見せかけた日本制作盤だと思ったら、やはりミュージシャンやスタッフは全員日本人でした。レコードを20年も30年も買ってると、そういう事が読めるようになったりします。おそらく経験が生み出す一種の危険察知能力なのでしょうが、だからといってあまり得する事もないんですけど(^^;)。
 アルバムの半分はジャズ曲のカバー、もう半分はジャズ・テイストの入った日本の曲のカバーでした。実は「外すだろうな」とひそかに思っていた僕の予想を裏切られた、よくできたいいアルバムでした!

 まず、アレンジと演奏が素晴らしかったです。アレンジは小西康陽さんで、基本的にアコースティック・ジャズのスモールコンボ。ヴィブラフォンが本職の香取良彦さんがピアノを弾いたりするからか、音数が少なくてスペースが広く、これが絶品。録音がメッチャクチャすばらしいから、音の空間が広くても音がすっぽりいなくなる帯域を感じず、ドラムとベースだけでもう十分美しいサウンドの音楽、みたいな。スモール・アンサンブルを作る時って、帯域は埋めないといけないけど音は埋めすぎちゃいけないんですよね。ちなみに録音エンジニアさんは廣瀬修さんという人でした。実は本作のMVPってレコーディング・エンジニアじゃないでしょうか。

 そして、日本の曲の演奏が良かったです。裏を返すと、スタンダード化したジャズ曲は、演奏や歌は悪くないと思うけど、これはうまく演奏できたから何?って感じで、むしろうまく物真似するほど良いという脱亜入欧な金魚の糞な負け犬感性ばかり引き立ってしまうようで、カッコ悪く感じてしまいました。「Cry Me a River」のギターなんて、ジュリー・ロンドンのアルバムでのバーニー・ケッセルそのまますぎて、ここまで丸コピーだと聴いていて恥ずかしくなってしまいました。まあ、八代さんが歌手を目指したきっかけはジュリー・ロンドンだったそうなので、そのままやりたいという歌い手さん本人の希望だったのかも知れません。でも日本曲をやると、日本の音楽とジャズをアウフヘーベンしたように聴こえるんですよね。りりぃ「私は泣いています」とか越路吹雪「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」あたりは選曲のセンスも最高…って、後者は盗作疑惑で裁判になった曲でしたっけ(^^;)。

 この日本とアメリカをアウフヘーベンする感覚は八代亜紀さんのヴォーカルにもあらわれて感じました。狙ってやったわけじゃないのかも知れないけど、ジャズ・ヴォーカルになり切れていない所がいいと思いました。だって八代さんが歌うという意味は残さないと意味ないんだから!でもジャズヴォーカルものとしてだめというわけでもなくて、これ以上はないんじゃないかという塩梅。あの八代節のヴィブラートがこんなにジャズに合うとは。。そうそう、ガイド・ヴォーカリストのクレジットもあったので、八代さん自身はガイド・ヴォーカルをコピーしたんでしょうけど、それでもそれは英語の発音が主で、歌い回しの要所に自分の色を残したのはさすが戦後日本有数のヴォーカリストと思いました。

 いい意味でジャズであってジャズでない絶妙さ、いいアルバムだと思いました。小西康陽さんてピチカートファイヴの人でしたよね?方向性と要所だけ作り、ジャズな部分はプロフェッショナルなプレイヤーに任せた制作プランが良かったんじゃないかと。


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『八代亜紀 / ゴールデンベスト』

YasiroAki_GoldenBest.jpg 1970年代の昭和歌謡最高の女性シンガーは誰か。弘田三枝子、藤圭子、ちあきなおみ…みんないいなあ(^^)。何人もの顔が思い浮かびますが、この人も間違いなくその候補でしょう、八代亜紀さん!八代亜紀さんって演歌の印象があったんですけど、いざ聴いてみると意外と演歌と感じないから不思議。演歌と歌謡曲の差って何なんでしょうね。これは、八代さんのベスト盤。僕的には「舟唄」と「雨の慕情」さえ入ってればいいと思って、深い事は考えずに安い中古盤を手にしただけでしたが、これがよかったです!

 仕事で疲れて帰ってきた労働者男性の心をいやす大衆音楽という事で、作曲やアレンジはシンプル。面白いと思ったのは「あかんたれ」のサビのシンコペーションと、「舟唄」のアレンジ。「舟唄」のオーボエとアコギの抒情性は演歌のハイライトのひとつじゃないかと…あれ、やっぱり演歌と思ってるのかな(^^;)。

 心にしみたのは曲やアレンジではなく、詞でした。基本的に男と女の愛憎入り混じった世界なんですが、いずれも大人の世界なのです。

七年も一緒に過ごした仲だから、あなたの心は分かってしまう (「あなたに乾杯」悠木圭子)
心が忘れたあの人も、膝が重さを覚えてる (「雨の慕情」阿久悠)
泣くほどつらくさせておいて 独り暮らしに慣れたのに (「花束」阿久悠)


 素晴らしすぎる…。今どころか、90年代あたりですでにこういう大人の男女関係を歌った曲って流れて来なくなっていたので、よけいに胸にしみてしまいました。こういう詞は子供が歌っても嘘になってしまうので、作り手にも歌い手にも子供しかいなくなってしまった90年代のチャート音楽で聴かれなくなったのは仕方ない事かも。昭和歌謡も70年代までは大人が聴ける音楽だったんですよね。そのプロフェッショナル性は音楽的には保守でつまらないものを大量生産しつつ、詩的には言葉を上滑りさせないものを大量に生み出していたと感じます。そして、こういう詞を歌えてしまう八代さん、すげえ。ハスキーでヴィブラートのコントロールが素晴らしい八代さんの歌唱って、タメのきいた古いジャズっぽくて最高です。

 このベストは日本コロムビア盤。あれ?「舟歌」や「雨の慕情」って、テイチクじゃなかったっけ?と思ったんですが、テイチク原盤のヒット曲の音源もオリジナル音源のまま収録されていました。テイチクや日本コロムビアという古い日本のレコード会社って、こういう所の連携がいいのかも知れませんね。フィリップスやソニーだったら原盤印税のこと考えて新録しそうですし(^^;)。


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Author:Bach Bach
狭いながらも居心地のいい宿で、奥さんとペット数匹と仲良く暮らしている音楽好きです。若いころに音楽を学びましたが、成績はトホホ状態でした(*゚ー゚)

ずっとつきあってきたレコード/CDやビデオの備忘録をつけようと思い、ブログをはじめてみました。趣味で書いている程度のものですが、いい音楽、いい映画、いい本などを探している方の参考にでもなれば嬉しく思います(ノ^-^)ノ

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