
新古典時代やセリー時代の
ペルトを知らない僕にとって、ペルトは第1に「ヨハネ受難曲」を作曲しちゃうぐらいのキリスト教音楽家な人で、第2に現代オーケストラでドミソを普通に使っちゃうようなイージーリスニングな人。そしてもうひとつ感じるのは、同じ音型を執拗に繰り返す
ある種のミニマリズムな曲もけっこう耳にしてきまして、このCDに入ってる曲のいくつかは、まさにそんな感じ。キリスト音楽のような声楽で、オルガンの3和音が鳴って、そしてミニマル。というわけで、僕にとってのペルトのステレオイメージは、まさにこのCDなのでした。収録曲は、以下の通りです。
・アルボス「樹」
・私達はバビロンの河のほとりに座し,涙した
・パリ・インテルヴァロ(断続する平行)
・デ・プロフンディス(深淵より)
・何年もまえのことだった
・スンマ
・アルボス「樹」
・スターバト・マーテル
すべての曲が、最初に書いた、僕が勝手に思ってるペルトの特徴のどれかを持っています。この中で特に有名な曲は「
スターバト・マーテル」。
スターバト・マーテルというのは、ローマ・カトリック教会にあるセクエンツァ「スターバト・マーテル」がたぶん大元で、それと同じ詩を使った曲が書かれる事が結構あって、それらの曲は慣習として「スターバト・マーテル」というタイトルが付けられる、みたいな感じでしょうか。ヨハネ伝のセリフを使って作られた声楽曲が、どんな曲であっても「ヨハネ受難曲」と言われるようなもんですね。
ペルトのスターバト・マーテルは、3声のヴォーカルと3つの楽器によるもの。
スターバト・マーテルって、詩がすごいんです。「聖なる処女よ、われが地獄の火に焼かれざらんが為、審判の日にわれを守りたまえ」、みたいな。ここにはキリスト教の死生観がもろに出ていて、いずれ最後の日が来て、そこで地獄送りになるものとそうでないものが分かれる、みたいな感じですよね。日本人はどちらかというと自然から生まれて自然に帰るみたいな死生観を持ってると思うんですが、そういう文化圏に生きてる僕からすると、「死んだ後で地獄に落ちる」なんて言う世界観は怖すぎて、それこそスターバト・マーテルみたいな救いへの祈りや音楽に縋りたくなるのも分かる気がします。そして、この詞の内容に、ペルトの音楽は実にマッチして聴こえました。だからこれは、現代の作曲技法とか作曲作として聴いてはいけない音楽なんじゃないかな、と思っています。
でも、それでペルトの音楽や、ここでのヒリアード・アンサンブルあたりの演奏に心を動かされるかというと、話は別。僕は、あんまりペルトの音楽にはチャンネルがあってないみたい(^^;)。
バッハや
デュファイや
ラッススの宗教曲には心を動かされるのに、ペルトの宗教曲に今ひとつ心が動かないのは、これが現代に書かれてるという所にあるのかも。16世紀や17世紀なら、キリスト教音楽が当時の時代思潮を反映していると思えるんですが、現代にそれを踏襲してもそれはあくまで個人の宗教観と思えてしまって、否定する気はないけど共有できるほどそれが普遍的なものとは思えない、という事なのかな?
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