ダイナマイト・キッドを語って、この人を語らないわけにはいきません。日本に限らず世界的に見ても前代未聞の異次元のプロレスラーにして日本初の総合格闘技の創設者、佐山聡さんです!ある世代の男子で長嶋茂雄に熱狂した事のない人がいないのと同じように、
僕と同じ世代の男子で佐山さんに熱狂しなかった人なんていなかったんじゃないかなあ。それぐらいのスーパースターでした。
この本、ノンフィクションとしてムッチャクチャ素晴らしいです。プロレスの本って、面白おかしく虚実入り混ゼて適当に書くというのがスタンダードだったりするじゃないですか。でもこの本は2年以上もかけて関係者に取材を行って(57人に取材、参考文献は80冊ぐらい…実にちゃんとしてる^^)、話が食い違っている所はそこを指摘するなどして筆者の主観を避けた、実に見事なルポでした!プロレスのきちんとしたノンフィクションって『
1976年のアントニオ猪木
』あたりが最初なんでしょうが、こういうちゃんとした取材をして出来たプロレス本って、子どもの頃に見ていたギミックだらけのプロレスの舞台裏や事実を知る事が出来て、すごく面白いのです。
とくに興味を惹かれた部分は、佐山さんの幼少時からプロレス入りまでと、プロレスをやめてからのシューティング以降の事が書かれているところでした。なるほど、
僕にとってはテレビやビデオで見る事が出来たタイガーマスクやUWF時代が佐山さんのイメージですが、佐山さんにとってはその時代が逆に例外なんですね。山口で育った学生時代の佐山さんは、正義感の強い殺し屋みたい(^^;)。朝鮮人学校の生徒が幅を利かせて友達たちが毎日恐喝されている状態で、「そいつらの顔の特徴教えてくれ」と佐山さんが言ったら、翌日から朝鮮人学校の生徒が道を開けるようになったんだそうで。佐山さん、何をやったんだ(^^;)。

子どもの頃から佐山さんの夢は一貫していて強くなる事で、プロレス雑誌を買いあさり、猪木さんにあこがれていたそうです。だから柔道部に入ってもレスリング部に入っても、ぜんぶプロレスを想定。プロレスに入った後も、猪木さんに「いずれ新日本プロレスは格闘技を戦うことになる。その格闘技レスラーの第1号がお前だ」と言われ、ずっとそれを想定して練習していたり。これは新日でのプロデビュー→UWF→シューティングと一貫してるんですね、なるほど。
やらせではなく実践を志向したシューティング以降の章は、リアルファイトの恐ろしさやトレーニングの過酷さが伝わってくるものが多くて、ぞっとしました。試合で死ぬ選手、目に指を突っ込まれて失明する選手、また佐山さんのしごきで「ああ、俺はこのまま死ぬのかな」と意識を失っていく選手。あまりに殺伐としていて、一歩間違えれば死ぬこともあるこういう世界には、アウトローな感覚の人以外は入っちゃいけないと感じました。
そして、佐山さんと猪木さんの似てるところが切なかったです。佐山さんも猪木さんも、ある専門分野のスペシャリストの頂点にいた人で、壮大な夢を持っていて情熱が凄いんだけど、ある意味で世間知らずだし金に無頓着。技術屋だけでいられたら良かったのかも知れませんけど、それじゃ技術屋は商人に使われるだけで、それはそれで悲劇で「格闘技」なんて出来ないんでしょう。考えが理解されず、自分が作った団体から追い出されるところもそっくり。佐山さんが修斗を追われたとは知りませんでしたが、身銭を切って1億円も借金しながら団体や選手を守ろうとしたのに、それが下の人間には伝わらないんだなあ。人に施すときは見返りはないものと思えなんて言いますが、これは会社なんかでも思うところはあるんじゃないでしょうか。愛情をかけてかばった後輩や社員から牙をむかれる、とかね。上の立場の視点から物を眺められない人って多いですから、愛情を相手に実感させるというのも大切な技術なんだろうな、な~んて読んでいて思いました。
この本を読む前の佐山さんのイメージは「空前絶後、異次元の技を次々に繰り出した天才」というものでしたが、この本を読んだあとは「日本で初めて総合格闘技の技術体系を整備して、グレーシー柔術のようにリアルファイトで勝てる集団を作り出した人」というイメージに変わりました。日本の総合格闘技の原点は猪木道場にあったんだなあ…な~んて改めて痛感しました。いやあ、この本は面白かった!
追記:とにかく取材力が素晴らしい見事なドキュメンタリーでした。その中で、特に印象に残ったものの備忘録を残しておこうかと。
- 藤原喜明が柔道重量級世界一のウイリアム・ルスカとスパーリングした時の発言:「日本アマレス協会の福田さんが“藤原君、やってみたまえ”って(ルスカを)連れてきた。少なめに見積もっても10分間で10回以上極めた。福田さんはいつの間にか俺の事を“藤原さん”と呼ぶようになっていたね。でもルスカが(関節技を)知らなかっただけだよ。俺が勝ったというのは俺たちのルールの上での話で、彼の強さとは関係がない。柔道着でやっていたら3秒も俺は立っていられなかっただろうな」(p.70)
- 藤原や佐山と同系譜の先輩レスラー・北沢幹之の発言:彼の中には敬意を抱くべきレスラーのかっことした基準があるようだった。それは練習をきちんとやっているか、である。「猪木さんは練習が好きで、いつも一緒に練習していました。関節が柔らかくて、がっちり極めて、ぜったいに逃げられないはずの技でも横にひねって逃げる。あの躯で練習が好きだったら、どうしようもない。僕がある程度レスリングを覚えてから、腕を極められたのは猪木さんだけです。あの人、滅茶苦茶強いです」そして、坂口(征二)選手みたいに大きな躯をしていても、練習が嫌いだとやっぱり弱いですよ、とフフフと小さく声を出して笑った。北沢の猪木に対する敬意は深い。(p.73)
- 佐山の証言:「猪木さんは“新日本プロレスではいずれ格闘技をやる。お前を第1号の選手にする”と言ってくれたんです」(p.103)
- 全米プロ空手1位のマーク・コステロとの異種格闘技戦(リアルファイトと言われている1戦で、これに佐山が負けた事で猪木は新日本プロレスの格闘技路線をやめたと言われている):「ぼくからしたら、パンチ、キックをかいくぐって、タックル行けたら勝ちなわけですよ。ただ、頭から落としてやろうと投げようとするんですが、向こうが手をついちゃうから投げられない。力任せじゃダメなんです。(中略)投げる時は投げる。投げない時は投げない。当たり前の事なんですけれど、当時はぜんぜん分かっていなかった」(p.106)
- 「最初から、タイガーマスクは猪木さんのためにやっていた。やっぱり弟子でしたし(猪木とは)気が合っていましたからね。(中略)」タイガーマスクは新日本の経営が落ち着くまで――その後は格闘技の選手になるつもりだった。(p.158)
- ボクシングでは腕を顎付近に構えてガードを固める。しかし、このガードではこめかみなどを狙った横からの強い蹴りには対応できない。また、ムエタイでは上半身の重心を後ろに置き、足を触角のように振り回す。この足を掴まれれば倒される事になる。ムエタイには寝技がなく、タックルを想定していないのだ。立ち技の打撃、投げ技に対応するには、頭部を護るように両腕をあげる「低重心アップライト」が最も適しているという結論を導き出した。この「低重心アップライト」という言葉は佐山が考えた造語である。(p.252)
- なぜ、前田たちに蹴りを教えなかったのかと佐山に訊ねると少し間を置いてから口を開いた。「だって(シューティングの)秘密をばらすことになるじゃないですか。今ならばともかく、あの当時は弟子にしか教えたくなかった。蹴りだけじゃなく、タックルに入るタイミングとかそういうのは秘密にしておきたかった」(p.278)
- 中村頼永の証言:(佐山さんは藤原の後頭部を蹴っている。なんてKOできないんだろう)中村が学んだ寛水流は、寸止めがないフルコンタクト空手だった。稽古や試合で頭部に蹴りをまともに受けた人間が崩れ落ちるように倒れるのを何度も目撃している。中村自身も一蹴りで相手を倒した事もあった。(中略 あんな蹴りを本当に喰らったら死んでもおかしくない。これはプロレスだ)(p.312)
- 中村の証言:次の瞬間、中村は床に叩きつけられていた。目を開けると、佐山が馬乗りになっていた。肘で顔を殴られ、後頭部が床に当たった。がん、という鈍い音がして、目の前が真っ暗になった。脳震盪を起こしたのだと思った。「殺すぞ、この野郎」佐山が低い声で叫んだ。いつもの佐山の優しい口調とはまったく違っていた。(中略)(俺、ここで死ぬんかな)(p.317)
- 佐山がサンボ本の実演モデルをやった時の平選手の証言:佐山がサンボの技を練習しているのを見たことはなかった。それにもかかわらず複雑な技を一瞬にして真似ていた。手品を見せられたような気分だった。(中略)(佐山さんは、必ず「ふんふん」と独り言のようなリズムを取っていた。(中略)1つ目の動きをやり始めたら、途中で次の動きの準備をして技が綺麗に繋がるように動く。一つの動きが終わってからではなく、動作の途中で重なるように動き始める。その連動がスムーズだから、技そのものが凄く速い)(p.338『U.W.F.外伝』より)
- 北原選手がシューティングを抜けた時の話:北原が頭を下げると、佐山は手で制した。「ありがとうございましたとか、言うな。またどこかで会うか分からない。お前はお前で一生懸命やれよ、頑張れよ」(中略)「プロレス界では俺のことを悪くいう奴がいっぱいいる。そのときはお前も一緒に俺の悪口を言え。お前がそう思っていなければそれでいい。本当の思いは心にしまっておいてくれればいいんだ」佐山の穏やかな顔を前にして、北原は胸がいっぱいになり何も言えなかった。(p.354)
- 空手経験をしてから修斗に入った石川義将の発言:「自分も空手をやっていたし、色んな人の蹴りも見てきました。だから見る目はあると思いますけど、あの人ほど速くて重い蹴りを出せる人はいない。それは天性の運動神経や筋力だけではない」(中略)「空手の蹴りというのは(中略)基本は力なんです。でもシューティングの蹴りは“抜く”んです。パーンと速く見えるんですが、(力で押し込んでいるのではないので)すぐに戻る。(中略)どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、空手をやっていたので、“抜く”というのをなかなか理解できなかった」(p.371)
- 中井祐樹(レスリング、七帝柔道から修斗に進んだ格闘家)の証言:「新日本時代、誰が強かったのですかっていう話を聞いた事もありました。猪木さん、藤原さんが強かったと。ゴメスについては強かったことは強かったけど、チョークスリーパーしかないから馬鹿にしていた。ただ、よく考えたら、あれが一番いいというんです。ヒクソンと同じで、あのときからゴメスはそれをやっていたとおっしゃっていました」(p.436)
- ヒクソンは日本での対戦場所を「バーリ・トゥード・ジャパン」であると明言した。修斗こそ本物の格闘技が行われる舞台であると保証したようなものだった。佐山の苦労が報われる日が来ようとしていた。(p.442)
- 朝日がグレイシー柔術の紫帯のボビーとスパーリングした時の証言:「ボビーとスパーリングして極めることはできたんですが、その中で初めての技を仕掛けられたんです。あれは何って訊いてみたら“ニー・イン・ザ・ベリー”だって」(中略)膝を相手の腹部に押しつけてポジションをコントロールする柔術の基本技である。「(中略)そんな基本的なことさえ知らなかったんです」(p.470)
- UFO参加時の小川直也の証言:(猪木さんとスパーリングやったときは「ホントにやってるよ…」とかね、夢心地みたいな感じで、きついながらにも嬉しさが半分あって。佐山さんのときは、キックの練習でローリング・ソバットやっているじゃないですか、ヒュイッと。いきなりそれをみぞおちに食らったんですよ。すっごい苦しかたですけれど、食らいながら「これだ!!」って)(p.490)
- 小川と練習した時の佐山の発言:「技術を教えようと思ったこともあるんですが、猪木さんがそれを望んでいなかった。だからオーちゃんにはほとんど(総合格闘技を)教えてないです」(p493)
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