北米インディアンに関しては、こんな本を読んだ事があります。ニューメキシコ州に居住しているプエブロ・インディアンと深く関わったらしい白人女性のナンシー・ウッドという女性作家が、プエブロ・インディアンの老人たちから聞いたた言葉をまとめたものです。
読んでいて、どの言葉もおおむね以下3つのどれかにカテゴライズできると思いました。第1は人生観や死生観を示したもの。第2は自然の中に自分が生きているという世界観や生命観を示したもの。第3は、プエブロ・インディアンと白人との考え方の差を示したものです。
第1の死生観は、死が視野に入っているだろう老人たちから聞いた事も大きいかも。でもって、この死生観がまったく人間本位ではなく、そこが素晴らしかったです。たとえば、こんな言葉がありました。
どちらを向いても、悲しみというものはありません。というのは、すべてはそのとき、そうあるべき姿、そしてそうあるべきだった姿、また永久にそうあるべきだろう姿を、とっていたからです。ねえ、そうでしょう、自然は何ものとも戦おうとはしません。死がやって来ると、喜びがあるのです。年老いたものの死とともに、生の新しい円環が始まります。(P.66) こういう死生観って、「死んでも自分は何かになって生まれ変わるから大丈夫だ」という人間本位なものじゃない所が素晴らしいと感じます。だって科学的知識がある現代人としての僕は、「また別の命になって…」と言われても、今自分が持っている意識がなかったら意味ないじゃんと思うわけですが、でもそういう事を約束しないで「何かほかの形になる」と言われればそれはそうだし、その状態でそれで良いのだといわれたら、納得がいった状態で死を迎え入れる事が出来そうな気がするんですよね。
第2は世界観や生命観は、第1と繋がっているものと感じました。
わたしの部族の人々は、一人の中の大勢だ。たくさんの声が彼らの中にある。様々な存在となって、彼らは数多くの生を生きてきた。熊だったかもしれない、ライオンだったかもしれない、鷲、それとも岩、川、木でさえあったかもしれない。誰にも分からない。とにかくこれらの存在が、彼らの中に住んでいるのだ。
彼らは、こうした存在を好きな時に使える。木になっていると、とても気持ちのいい日々がある、あらゆる方向が、一度に見渡せるからだ。岩になっているほうがいいような日々もある、目を閉ざして、何も見ずに。日によっては、できることはただ一つ それはライオンのように猛烈に戦うこと。それからまた、鷲になるのも悪くない理由がある。ここでの人生があまりにもつらくなったとき、鷲となって大空を飛翔して、いかに地球がちっぽけかを上から見ることができるからだ。すると彼らは大笑いして、巣にまた戻ってくる。(P.78) つまり、こういう自然すべてでひとつである、みたいな共生感や一体感が、第1の死生観に繋がっているのではないかと感じました。これですよね、現代人が日常に追いまくられているうちに忘れている感覚って。
第3の白人の考え方との差は、これらプリブロ・インディアンの世界観と比較してのもので、要約して言えば「白人はそのうち自滅してしまうだろう」、なぜなら「彼らにはルーツがない」(p.6) という論理でした。ルーツというのは解釈が色々できそうですが、彼らの世界観から推察すると、彼らを成立させている根幹の正しい理解という所じゃないかと。これを理解できていないから、自分を成立させている自然を平気で破壊したり、神でもないものを神と崇めたりするわけで、そんなやつは自滅しないわけがないだろ、という事なんじゃないかと。
そして、正しく生きて正しく死ぬことを判断できるようになるための
「究極の理解への鍵」(P.5) というのが、こういう世界観や死生観なんじゃないかと感じました。書かれている言葉は単純だし、正直いって「そんな事知ってるよ」と通り過ぎそうになってしまいそうになった自分もいたんですが、知識として「知っている」事と、こうした自然観を身をもって「知っている」事はまったく別と思います。そして「あ、知識だけじゃダメなんだな」と理解させてくれたのが、実は訳者の金関寿夫さんという方が書いた、むちゃくちゃ詳しい解説つきのあとがきでした。本文よりこっちの方が素晴らしかったです(^^)。訳者や編集者の方って、作家よりも博学だったり理解が深かったりする事がありますが、この本なんてその典型じゃないかと。
故事成句や詩の類だったりしますが、お金や職業に振り回される現代人の僕にとってはグサリとくるものでした。北米インディアンの思想は西洋思想の反省点として注目される事があって、これはそういう流れの中でベストセラーとなった1冊。あんまり深く哲学している本じゃなくて、1日もあればサラッと読めてしまうので、
北米インディアン思想への入門書として最適の一冊じゃないかと!
- 関連記事
-
スポンサーサイト