
グルジアの作曲家
カンチェリの詩つき作品「エクシール」のCDです。編成は、ソプラノ、器楽(弦カル+フルート)、テープ。ECM は
アルメニアのグルジェフやド・ハルトマンあたりもカタログに加えるなど、クラシックシリーズの中で東欧からコーカサスあたりまでの音楽を取りあげることがあって、これはそうした中の1枚だったんじゃないかと。曲に「マンフレート・アイヒャーに捧ぐ」なんて副題がついていたので、ECM の委嘱で作られた曲なのかも知れません。
音楽は5部に分かれていて、それぞれ詩がついていました。冒頭が聖書の詩編第23章。続く3つがユダヤ系のドイツ詩人
ツェランの詩。最後がユダヤ系ドイツ人のハンス・ザールの詩でした。アルバムのタイトルからして、カンチェリ自身がジョージアからドイツに亡命した時に作った作品なのかも知れません…まったくの僕の想像ですけどね(^^;)。ツェランの詩「かつて一度」は、僕もツェランの詩の中では好きな1篇です。でもツェランの詩は2次大戦と切り離せないもので、しかもツェラン自身が最後は自殺ですから、けっこう重いです。詩や音楽そのものではなく、ある特定の地域や時代の個人的な考えや体験を創作物に託すところは、ツェランもカンチェリも似てるのかも。多くの人が共有できる所まで抽象化を進める前の段階で作品にしてしまうところが似ているな、みたいな。
カンチェリさんは、音楽を音そのもので伝えるものとは考えていなかったんじゃないかと思えます。「祈り」とか「亡命」とか「音で言いたい音楽以外のもの」とか、言いたい事は理解はできるんですが、それは音自体の作用ではなくて、音以外のところで起きている意味関係ですよね。。
音楽って、やっぱり音そのものが説得力を持ってないとダメだと思うんです。それは宗教音楽でも儀礼音楽でも舞踊音楽でも、環境音楽ですら同じ。キリスト教の典礼歌だって、主目的は音楽そのものじゃないですが、それでも音楽自体がぞっとするほど美しかったりするじゃないですか。僕が好きじゃないのは、音自体では説得力がないのに、なにか音以外のもので価値づけしようとするもの。それって、音楽が面白くない事を、他のモノで言い訳しようとしているように思えちゃうのです。
何年か前に、人に曲を書かせて、それを「広島の悲劇」みたいに言って色々と受賞したエセ作曲家さんがいましたが、あの事件なんて音楽の内容よりもその意義ばかりに注目したいい例で、じゃああの音楽が広島の悲劇ではなく昨日起きた震度2の地震が題材だったらみんな感動しないのか、という事になりますよね。そうなると、音じゃなくて音以外のコンテキストが判断基準になるわけで、音がどうであっても「これは福島の悲劇を」とかそれっぽいこと言っちゃえばみんないい音楽作品という事になっちゃうじゃないですか。それでいいわけがないので、音楽作品として提示するなら、仮に音楽外の何かを提示したいのだとしても、まずは音楽自体が説得力を持っていて欲しい、みたいな。
この作品、音だけを聴くなら、ルネサンス音楽でもバロックでもグルジアの無伴奏合唱でも何でもいいですが、それらを聴いてきた人が、この作品を良いと判断する事はないんじゃないかと思ってしまいました。ドミソ鳴らして「ここには亡命の悲しみが」とか「ジョージアの不幸な歴史が」みたいにいわれても、つまらない音楽を言葉でどうにかひきあげようとしている佐村〇内的なインチキに思えてしまった…。これを良いと感じるとしたら、ECM のヒーリング作品という脈絡以外にはないんじゃないか、みたいに思ってしまった僕は、きっと心が汚れているんでしょうね(^^;)。。
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