
ロマン派音楽のピアノ協奏曲について色々と考えていたら、協奏曲や交響曲の悦楽…みたいな所に考えが行き着いてしまいました。僕はロマン派音楽のシンフォニーを、そういうものとして捉えているんでしょうね。で、その手の音楽の極限にあるものは…やっぱり、ワーグナーやマーラーになるんじゃないかと。そしてマーラーの第3番は、演奏時間100分超となる大交響曲で、長大な交響曲の中でも特に演奏時間の長い曲です。普通の生活を営んでいたら、とても聴けるシロモノではありません(^^;)。
交響曲といって僕が真っ先に思い浮かべるのは、
ベートーヴェンとマーラーです。ベートーヴェンは初期は古典派で後期はロマン派に数えられ、マーラーは後期ロマン派と呼ばれます。両者はそれほど劇的に違う音楽とは感じませんが、でもけっこう明確な差もあります。そのひとつが様式で、構造に相当な配力があるのが古典派、様式がかなり自由で、物語の流れや情景描写次第が音響構造より優先する事もしばしばあるのがロマン派、みたいな区分けも出来るんじゃないかと。
この曲の1楽章は「夏の始まり」と「牧羊神の目覚め」が構想されて、これを音で表現してしまう、音で描く風景画的なやり方をしてますが、これが音で風景を描けてしまう見事さでした。まずは絵画性が高いんですよね。
そしてこの3番、長いドラマで描こうとしているテーマに考えさせられるものがありました。最初は短調で始まった曲が100分もの時をかけ、絵画的に描かれた6つの楽章を渡り歩き、最後に辿り着くのは…天国のような、えらく清廉な世界。これってつまり、人生を描いているんじゃ…。音楽どうこうを抜きにしても、創作物の主眼を個人の人生や死をテーマにするって、もうそれ以上はないのではないかというぐらいの重要な所に取り組んでいるのではないかとお感じるのですよね。その最後に奏でられたヴァイオリンのレガートの美しさと言ったら…つまり死の瞬間(それともその先?)を安静や美として描いたわけですが、ここに胸を打たれました。
ただ…僕みたいな現代日本に住んでる労働者階級の人間にとっては、マーラーの3番を最初からゆったり聴く時間がないのです(T.T)。いつか、マーラーの3番をゆったり聴ける時間がある生活をできるようになるんだろうか。。労働者は辛いよ。
(2022.10 追記) 久々にこの録音を聴きなおしました。最近聴いたつもりだったんですが、もう8年も前なんですね。マーラーの3番を聴いて思い出すのは、
ラフマニノフ「パガニーニの主題による狂詩曲」。要するに、管弦楽の美しいオーケストレーションです。これが来るのが第6楽章で、長大な交響曲のラストが飾られます。この曲だけで20分を超えますが、もうなんというか…忘我の境地で身を任せていたい音。感動といってしまえば簡単ですが、感動を通り越したもっと壮大なモノ、人知を超えたもの…みたいな。
ロマン派って、死がテーマになっているように感じるんですが、それをどのようにすれば昇華させられるか、というのがマーラーのシンフォニーの多くに魅まれる裏テーマであるように感じられました。交響曲第3番も例外ではなく、その最終楽章は死んで天に召される様を描いてるのではないかと思ってしまいました。
そして、
あまりに美しい浄化の第6楽章を活かすなら、このシンフォニーは第4楽章からで良い気がしました。1楽章なんて、それだけで単一楽章のシンフォニーと言ってよいほどよく出来ていますが、あまりに私的で饒舌すぎるというか。前半楽章が現生で、後半に従って死―死と言っても日本的な感覚ではなくて、キリスト世界での昇天のような救いの感覚―へと繋げてあるように聴こえたので、物語としては整合性が取れているのでしょうが、短歌・俳句のある国に生まれた身としては皆まで語らずとも分かるというか、純粋に音楽と見れば後半だけの方が完全を示せるのでは、な~んて思っちゃったりして(^^;)。4楽章から聴くと、物語としてではなく純音楽として完全を成立できる気がするんですよね。
4楽章も最終楽章に近い美しさを持っていて、ニーチェの詩が使われています。抜粋すると、「世界は深い、昼が思っていたよりも深い(中略)だが、
すべての快楽は永遠を欲する―深い永遠を欲するのだ」。これが5楽章で「子供の不思議な角笛」の一節に繋がります。「
3人の天使が美しい歌を歌い、その声は幸いに満ちて天上に響き…」、そして最終楽章へと繋がります。
それにしても、マーラーの交響曲は、ひとつひとつが青年会からその死までを描いているようで、言ってみればひとりの人生のよう。ひとつを聴いて「これはかくかくしかじかな音楽だ」とか、簡単に言ってはいけないものに感じました…さんざん語っておいてなんですが(^^;)。
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