
こちらは岩波文庫版
『悪の華』、鈴木信太郎さん訳です。新潮文庫の堀口大學訳がちょっと古めかしい訳文で分かりづらかったもんで、別の訳を買ってみた大学生の頃の僕でした。結果として、こっちも旧仮名づかいだったんですけどね(^^;)。同じ詩集を訳違いで買ったわけですが、詩の翻訳は厳密には不可能と思うので、訳違いを読むのも選択肢のひとつと思うのです。
明確に「こっちの訳が勝ち!」と言えません、詩による。。例えば、最初の詩「祝祷」の一節を例にとると、堀口大學に一票。
(堀口大學訳)
われ知れり、苦悩こそ唯一の高貴
人界も地獄も、このものは傷け得ずと、
またわれに値する神秘なる冠を編まんには
あらゆる時代、あらゆる国を動員すべきを。(鈴木信太郎訳)
知ってゐる、苦悩こそは唯一の高貴なもの、
地上も地獄も永久に損ふことはないであらうと、
また、詩人の神秘の王冠を編まうとすれば
あらゆる時間とあらゆる世界に貢ぎ課さねばならないと。 ところが、最後の方の「芸術家の死」では鈴木さん訳の方が良い気がしてしまいました。
(堀口大學訳)
不出来なカリカチュールよ、何度僕は、狂ほしい感興の
鈴を振り立てながら、そなたの下卑た額に接吻したらよいのか?(鈴木信太郎訳)
そもそも幾度、俺の鈴を鳴らさなければならないのか、
陰鬱な戯画よ、幾度卑しいお前の額に接吻せねばならぬのか。 要するに、
意味が分かりやすい事と、詩の持つ音楽的なリズム感を感じる事、このあたりで僕は訳詩の良し悪しを判断している気がしました。だいたい、原文を読んでないからどれぐらい原詩に近い内容を持っているかは判断できませんしね(^^)。。仮に読んでいたとしても、詩だから逐語訳が正しいとも思えませんし。
ランボーの詩であれば小林秀雄役という超名訳を持っているのですが、ボードレールは『悪の華』にしても『巴里の憂鬱』にしても「おお、これはいい!これだけあればあとはいいや」という訳に出会う前に通り過ぎてしまいました。まあ、移動時間に読もうと思って本屋で目に留まった文庫本を買っただけでしたからね。。『悪の華』なんて近代詩の代表格だから、探せばきっといい現代語訳も出てるんでしょうね。惜しいのは人生の短さ、他の訳も読んでみたいけど、僕には他の訳を読んでいる暇がなさそう。訳詩集を読むときは、安直にパッと目についた一冊を取るのではなく、いくつかの訳を見比べて厳選してから読むべきだったなあ…おっと、『悪の華』にまったく触れずに終わってしまいました。まあそれは堀口訳の方に書いたからいいか。。もし未来の自分に伝えるとしたら、「読み直すなら堀口大學訳の方が7:3ぐらいの差で良いかも」と言う…かな?
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