
読み方は「とうしいってき」、
フランス象徴派の詩人マラルメが晩年に書いた有名な詩集です。ランボーが好きだったもんでフランス近現代の詩を片っ端から読んでいた時期があるんですが、はじめてこの詩集を読んだ若い頃はアバンギャルドすぎて理解できず(^^;)。というのは、
この詩集は図形詩というか視覚詩というか、詩が空間的に配置されて書かれているんですよね。でもって、そうする事にどういう意味があるのか理解できず、「なんか芸術っぽい事をやって悦に浸ってるだけじゃないの?」と穿った見方をして終わったのが若い頃(^^;)>アホダネ。でも今ならちょっとは分かるようになったかなと30年ぶりのトライです!
ああ~なるほど、この詩集は、上から下にだけでなく、言葉が色々な方向と繋がっているようでした。たとえば 序盤にこんな記述が(真ん中の縦線はページ境)。
| 分裂を収斂して誇らしく死ぬ ために
秘密を握る片腕 | 高くさしあげた むくろとなって
ためらう |
これ、縦に読んでも横に読んでもいいんでしょうね。つまり、それぞれのフラグメンツの関係構造で全体を作っていて、音楽的な構造を作り出したかった詩なんだろうなと感じました。
でもそうすると、読み方によって意味が変わってくることになりますが…ああ~なるほど、だから「骰子一擲」(サイコロの一投は偶然を含む、みたいな意味だそうです)というタイトルなんですね。で、ある程度の偶然性と、実際に詩人が書いた言葉の必然性のバランスの中に現実がある、みたいな。
でもって、詩の内容。たぶん
この詩集はダダのように錯乱したことをやることそのものを目的として言葉自体に意味はないとかそうではなく、具体的に伝えたい内容があるように感じられました。例えば、終盤にこんなふたつの語群が出てきました。
精神
として 数
を嵐に投げうち
分裂を収斂して誇らしく死ぬ ために
消え去るにあたっての
二者いずれかへの
遺贈
この詩集が書かれたのはマラルメが死ぬ一年前です。「死ぬ」も「消え去る」も自分の死を言っているのでしょうが、いくつもある人の人生が「数を嵐に投げうち」で、その中の一つが選ばれた自分の人生が「分裂を収斂」なのでしょう。つまりこれは、マラルメにとっての人間というパースペクティブから見た世界像であって、その中で自己をどうとらえれば人生を「誇らしく」思うことが出来るか、という事なのではないかと。でもって、偶然だったり、ある種のゆらぎが入り込む余地があるという事は、決定論/機械論的な世界観が真実ではなく、人間の意思もこの世界ではありうる範囲で影響するのであって、この行為がどちらかに遺贈されるのだ、みたいな。
これは言葉を使っての作曲で、同時に人間観/宇宙観の本だと思いました。ある程度の偶然性も含むし、言葉のつなぎ方や眺め方によって色々な意味が生まれてきそうなので、何度も読むと面白そうです。短いですしね。そういう言葉の響きや繋がりやレイアウトも重要になる詩集である事を考慮してのことだと思いますが、思潮社版の本はマラルメ本人によるフランス語のままのコピーも載っていました。
でも、内容を伝えたいなら詩や文学ではなく哲学や科学として提示した方が良いだろうし、構造を示したいなら言語ではなくて音楽の方が優れているんじゃないか…と思ってしまうのは、音楽好きな僕の贔屓目かな(^^;)>。それでも誰かが一度はやらないといけない実験であって、たしかに詩の歴史の中に重要な足音を残した詩集なのだと思います。
- 関連記事
-
スポンサーサイト