ボードレール 、ランボー、
マラルメ の流れにあるフランス象徴派の詩人ヴァレリーの詩集です。日本語訳はボードレール
『悪の華』 も翻訳していた
鈴木信太郎 さん。という事は、このへんのフランス詩の日本語訳のスペシャリストさんなのかな?この詩集はヴァレリーの詩を日本で選んで訳出したものではなく、
1929年にフランスで235部限定で出された本の全訳で、「Album De Vers Anciens」「若きパルク」「魅惑」といったヴァレリーの有名な詩集がまとめられたもの でした。というわけで、これさえ読んでおけば「ヴァレリーを読んだ」と人に言っても問題ないんじゃないかと(^^)。
読んでいて、いくつか感じる事がありました。まずは、なるほど音韻やテーマの選び方、散文の場合はその構成の仕方といったところで
サンボリスムの先達の影響が強い と思ったことがひとつ。特にランボーの影響が強いと感じました。例えば、「セミラミスの歌」の一節はこんな感じ。
私は見る、新しいわが殿堂が世界の中に生まれるのを、 そして我が祈願が 運命の点の住処に座を占めるのを、 殿堂自身、波動に乗って、もうろうとした諸行為の 沸騰してゐる下を、空に昇って行くやうだ。 ランボーの『地獄の季節』を読んだ人ならそう感じるんじゃないかと思うのですが、この詩って、もろに『地獄の季節の』の「錯乱2」と「別れ」じゃないかと思ってしましました。まず音韻が「俺は見る、~を。~を。(結句となる暗喩)だ。」と、まったくのランボー調。世間から外れた自分の理想が消化されていくテーマは、『地獄の季節』の結部と同じ。でもここで言いたいのは「盗作じゃね?」みたいな事ではなく、それぐらいにサンボリスム系統のフランス詩そのものという事です。ヴァレリーは実際にマラルメと交流があったそうですし、またサンボリストの中では後進なので、それだけに音韻や修辞法が洗練されていると感じました。そうそう、ヴァレリーって、詩の内容以上に音韻の構造化に興味があった人だったそうです。さっきの「セミラミスの歌」もそうですが、たしかに内容よりも音韻に心を動かされる事が多かったです。
内容について。難解な表現が多いですが、思い切って要約してしまえば、ヴァレリーにとってのテーマって実は大体同じなのかな、みたいな。
漠然と生きている自分に対しての不安があって、それを乗り越えたいと思ってる。でももう科学の時代に突入しているので、ロマン派が希望を託すことが出来た超自然主義な方法での解決は納得いかないので、けっこうな袋小路。そうした状況自体が詩になっている …みたいな。例えば「夕暮の豪著、破棄された詩」の一節にこんなものがあります。
おお炎えている神々の間にある鋭敏な叡知よ、 ―美しすぎる空間から、俺を保護せよ、欄干よ。 というわけで、サンボリスムが洗練を極めるとこんな感じになるのかな、みたいに感じました。象徴の行き着く先だけあって難解な表現が多く、それだからかランボーみたいに「おお、すげえ分かる、これは俺だよ、俺の本心を見事に言葉にしてくれてるよ」みたいなカタルシスにまで至る事はなく、どこか衒学的に感じました。ヴァレリー自身は文学を絶対視していた人ではなく、もっと知性全般に目配りしていないと人間の問題には迫ることが出来ないと考えていたそうです。マラルメ以上に難解、でも言語を隠喩として使いつつ、音韻の構造化を狙っているという事だけはアホな僕でも何となく感じる事が出来た詩集でした(^^)。。
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