フルクサスのイメージにいちばん近い作曲家って、
ジョン・ケージじゃないかと。ケージは、図形譜だったり(楽譜を音符じゃなくて図形で描く)、不確定性の導入だったり、曲の最初から最後まで音の鳴らない音楽だったりと、かなり実験色の強い作曲家の印象でした。でも、ビート・ジェネレーションの詩を読んだり、「易の音楽」(ケージにこういう曲があります)を聴いたりしているうちに、実験音楽という以上に、東洋思想への傾斜なんじゃないかと思いはじめました。単なる音の遊びや目あたらしいものへの嗜好ではなく、追及しているものがあるように思えたのです。
このCDに入っている
『プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード』は、不確定性導入前のケージの代表作であり、
ケージが東洋思想を音楽に反映させた最初の作品とも言われてます。1946~48年ごろに作曲されていますが、実際にこのころ、ケージはコロンビア大学で鈴木大拙の禅の講義を聴講していたそうです。
タイトル通り、プリペアド・ピアノ(ピアノの弦に色んなものを挟み込んで弾く)のための作品なのですが、まるで
チルボンのガムランを聴いているよう!プリペアドはかなり大がかりで、ピアノらしい音が出てくるのは、ソナタ8曲が終わった後の第2インタリュードになってから。強くミュートをかけた音はバラフォンのようだし、ミュートの弱いものはガムランの金属音階打楽器のように響きます。音色が多彩で、ひとり打楽器アンサンブルみたいなのです。
そしてこの音楽の何に東洋を感じるかというと、西洋的なクライマックス型の人間の感情を示す音楽ではなく、自然に任せた音楽に聴こえるから。音色もそうなら、激して消えるという音楽でもなく、風に吹かれて楽器がカランカランとなっているかのようなのです。これって、音楽を人間が恣意的にコントロールしすぎず、自然と調和させているように聴こえました。こういうコンセプトって、ひとつ前に紹介した鈴木大拙さんの本
『仏教の大意』なんかでいうところの諸法無我(すべては他との関係で成り立っているもので、他との関係なしに独立しているものなんてない)、みたいな東洋の考えが背景にあるんじゃないかと。それでいて「ソナタとインタリュード」というタイトルなぐらいですから、構造に関しては偶然任せではありません。自然と調和させながら、人間を消し去ってもいないんですよね。感情吐露型の音楽でないけれど、実に音楽的なのです。
軽音楽ならともかく、「斬新だ!実験的だ!」なんてだけで評価されるほど、アカデミックな西洋音楽の世界は甘くないと思います。そして、この東洋思想からの影響は、ケージだけでなく、同世代のアメリカ文学に「禅ヒッピー」なんてものがあったり、フルクサスの
オノ・ヨーコの詩だったり、あるいは鈴木大拙の「仏教の大意」が西洋で多く読まれるようになった時期なんかとシンクロしているもので、それって偶然の一致ではないだろうと感じます。
シェーンベルク以降のドイツ型音楽バリバリの現代音楽の動向をガラッと変える事になったジョン・ケージ最初の注目作は、実に東洋的。つまり、西洋がいきつく所まで行きついて窒息しそうになったところで、その解決策のヒントが西洋の外にあったという事なんじゃないかと。若い頃は、ちょっと退屈な音楽に聴こえたCDなのですが、ワールド・ミュージックや色んな思想を一巡りしてから20年ぶりぐらいに聴いたら、メチャクチャよかったです。実験音楽なんていう一種の遊びではまったくない音楽だと、今の僕には感じられました(^^)。
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