
西洋中心主義的なコンテンポラリー化を目指す地域音楽という括りで、もう1枚。これは、箏や尺八という純邦楽の楽器を使って、J.S.バッハという17世紀バロックの代表的作曲家の作品を演奏したアルバムです。で、中牟礼貞則というジャズギタリストや、ウッドベースにドラムなんかも入っているという編成。沢井さん夫婦に、僕の大好きなジャズギタリストも参加というわけで、期待に胸を膨らませて聞いたのですが…う~ん、これもひとつ前の記事で書いた「クラシックのチェリストが何にも考えないで自分の解釈だけで音楽を演奏してダメにした」というパターンとそっくり。これぐらいダメだと、企画だけ先行して、リハーサルとかをやってうまく行くかどうかの事前確認作業なんて何もしなかったんじゃないかという気がしてしまいました(T_T)。中牟礼さんや沢井さんぐらいの超ハイレベルの人が、この音楽を「うまく行った」と思う筈が無いし、思ってほしくない。
先にフォローしておくと、この沢井忠夫と沢井一恵という箏奏者は、純邦楽をいい意味でコンテンポラリー化するスペシャリストともいえる夫婦で、成功したプロジェクトは数知れず、単なる演奏家ではなく、本当に素晴らしい音楽家なのです。旧来の曲ばかりやって邦楽の狭い世界から出てこようとせず、たまに出てくる人がいても「クラブミュージックとのコラボ」とか「ビートルズを邦楽器で演奏」とか、馬鹿なんじゃないかというものばかりの邦楽界で、これぞ正しきミュージシャンの姿!という活動をしている二人なのです。しかし、このCDは…もう、バッハ音楽の素晴らしさを全部消し、尺八や箏の良さも全部消すという、最悪の結果に陥っています。例えば、バッハはいくつかの作曲技法を用いて作品を書いた人ですが、そのすべてに共通していえる事は、音楽の構造が数学的に割り出されている点。つまり、構造様式にその視点があるんであって、エスプレッシーヴォに演奏するなんて事自体がバッハを理解していない事になっちゃうと思うのです。こういう音楽を、発音自体が非常にエスプレッシーヴォである尺八で演奏しようとするなら、どうすればバッハの構造美も活かしつつ尺八のエスプレッシーヴォな表現も活かすか、な~んていう所を解決させるのが普通のミュージシャンの最初の課題になると思うのですが…何も考えず、普通に吹いてます(T_T)。馬鹿だわ、こいつ。有名人だと誰も注意する人がいなくなってこういう事態が起こるんでしょうか。これを、バッハの良さも尺八の良さも消された音楽と言わずに何というのか。「トッカータとフーガ」が箏で演奏された瞬間も、もう何かの冗談としか思えず、「チャラリ~、鼻から牛乳~」にしか聞こえませんでした。コミックバンドか、これは。ところが、一方のジャズギターとジャズベースのバンド陣は、バッハ曲をオリジナルとは違うものとして、しかし良い音楽としてまとめ切っていたので、これは楽器の技量とかではなく、音楽をどう解釈すれば良いのかというセンスに関して、邦楽器演奏者側に重大な問題があったんじゃないかと。
安直な企画盤、これ以上望むべくもないというプレイヤーが揃っていながらこの体たらく、何とかならなかったのかなあ。大好きなプレイヤーさんが多数参加していただけに、がっかり度100%、憎さ100倍のアルバムでした。残念。
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