
1928年に発行された、イギリスの作家D.H.ロレンスの小説です。D.H.ロレンスも
『チャタレイ夫人の恋人』も、僕は名前だけは知っていて、てっきり純文学の有名作品なのかと思っていたんですが、世間的には猥褻で発禁となった事で有名になった小説みたい…そんな事を聞いてしまったら読まないわけにいきません(^^)。というわけでトライ!そうそう、僕が読んだのは、わいせつ箇所も伏字にせず完訳した新潮文庫版です。
先に、発禁となった
わいせつ表現部分に関して書いておくと、AVだって電車に乗ったままスマホで見られる現代からすると、まったく大したもんじゃないです。むしろ、
性愛を(精神性や文学表現ではなく)野生として素晴らしいものであると表現しようと努めた大した作品と思えました。
■あらすじ イギリスの資産家であるクリフォード・チャタレイに嫁いだチャタレイ夫人コニー。しかし夫が第1次世界大戦に従軍した折に性的不能という外傷を負ってしまう。、コニーは西洋のブルジョワ思想の張り付いた夫に嫌悪感を覚えるようになっていく。そしてコニーはチャタレイ家が雇っている森番の男メラーズと肉体関係を持ち、これまでにない高揚感に見舞われる。元軍人であるメラーズの生き方に感化されていくコニー、戦争や家人との不和で厭世観を持ち、人に触れないで生きて行こうとしていたメラーズ。ふたりは…
■猥褻文学ではなく、実存を主題とした見事な思想書に思えた 読む前はあまり期待していませんでしたが、見事な文学作品でした!なによりテーマが素晴らしかったです。主題は恐らくふたつ。ひとつは、
ギリシャ哲学以来の西洋の伝統的思考法である、精神と肉体という二分化した考え方に対する異議申し立て。もうひとつは、そこからひっぱってきた
資本家と労働者の対立図式にみえる資本主義社会の中のブルジョワジーに蔓延していた思想のまずしさ。これを重ね合わせる事で、物語が展開し、その展開に合わせて著者の考えをコニーやメラーズが代弁していきます。
■理屈ばかりで身体を失った不能な文化への批判 まずは、
イデア偏重で理屈っぽくなり過ぎた19世紀の西洋思想への批判。これはクリフォードが象徴していて、彼の振る舞いや台詞に溢れています。例えば、「人生の全問題は、統合的人格というものを、長年の統合された生活によって、築き上げる事になるのではないかな?」(p.79)など。クリフォードだけでなく、この作品に登場するブルジョワは似たような考えを共有しています。「自分の肉体のことに気づいた瞬間から、不幸というものが始まるのよ。だから文明というものが何かの役にたつならば、私たちが肉体を忘却することを手伝ってくれるものでなければ」(p.132)。イデアは大事ですが、でも生命は身体に宿っているのであって、イデアや精神だけを取り出して肉体を軽視する事は違うんじゃないか…ブルジョワ思想に対する嫌悪感となって、チャタレイ夫人にあらわれます。「完全な生活というものは(中略)習慣的な親密さというものに基礎を置いていた。だがそれがまったく空白であり虚無であると思われるような日があった。
それは言葉、ただの言葉にすぎない」(p.88)。
これって、ギリシャ哲学やキリスト教以降の西洋の思想がずっと引きずってきたレアールとイデアールという2分化という物の見かたの悪しき伝統で、それが覆され始めたのがまさに20世紀初頭の西洋思想の前線であった気がします。哲学で言えば実存主義がそれですし、『チャタレイ夫人の恋人』と同じイギリス文学で言うと『白鯨』あたりがそれ。この時点で、小説『チャタレイ夫人の恋人』はポルノや猥褻の書などではなく、見事な実存主義文学のひとつだと思いました。
■身体の復権へと踏み込むアウトサイダーまたは先駆者 ではその実存とはどこに着地するのか。『権力への意思』を書いたニーチェなら前へ進もうとする生命そのものというかもしれないし、超うしろ向きなサルトルなら「対自存在は空虚」なんていうかもしれませんが、D.H.ロレンスの場合は性。実存の着地点がセックスで良いのかというとそれだけではない気もしますが、実は実存の着地を性にみた文学者って少なくないんですよね。サー・ジュリアン・ハックスリもそうだし、また生物学では種の目的は自分の分身を残す事(=セックス)と見ていますし。
ブルジョワジーが理屈ばかりの不能者(夫が性的不能である事はメタファーなんでしょう)に映るコニーは、野性的な森番メラーズの肉体を偶然に見て、肉体的な衝撃を受けます。
「美の材料でも美の実体でもなく(中略)一個の生命の暖かい白い焔。それが肉体なのだった」(p.118)。
コニーは理念ばかりを語る不能者にますます嫌悪を募らせる一方、生命力あふれるメラーズにのめり込んでいきますが、コニーもメラーズものめり込みつつも躊躇を覚えます。その理由は、「恋愛が悪いのでもなく、セックスが悪いのでもなかった。悪いのは、あの向こうの方にある、邪悪な伝統や悪魔的な機械の騒音だった。機械的で貪欲なメカニズムと、機械化された貪欲な世界の中に(中略)騒音を立てる巨大な邪悪物が横たわっていて、自己に合致しないものすべてを滅ぼそうと待ちかまえている」(p.215)から。
そして、チャタレイ夫人とその恋人は、互いの離婚やら社会的因習やらと決別しなくてはいけない困難を感じながらも、一歩を踏み出していく…みたいな。さすがロマン主義から実存主義にかけてという文学全盛の時代に生きた小説家らしい文体で書かれるふたりのドラマは、読んでいてむっちゃくちゃ引き込まれるものがありました(^^)。
■20世紀初頭の西洋文学の王道にして傑作! 読んでいて思い出しましたが、そういえばコリン・ウィルソンが『アウトサイダー』か何かで、D.H.ロレンスの思想を「性のアウトサイダー」みたいな表現で書いていた記憶が。性描写が当時にしては入念なのは、性や身体という実存の素晴らしさを強調するために必要なことであって、これだけの実存主義文学を「わいせつ」の言葉で発禁処分にした当時の社会はまったく無粋というか、ロレンスがいうように真実から離れたところで凝り固まっていたのかも。これを官能小説と感じる当時の文化の読解力のなさが悲しいっす。
先に観た映画『チャタレイ夫人の恋人』91年版は完全にポルノでしたが、原作は見事な文学。しかも、
読んで面白いかどうかなんていう娯楽作品でも、ましてポルノでもなく、20世紀前半の数多くの西洋文学が扱った人間の主題に真正面から挑んだ正統派の小説と思いました。これは素晴らしい実存主義小説、素晴らしかったです!
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