
「決してひとりでは見ないで下さい」、流行りましたねえ(^^)。小さかった僕は、CMを見るだけでちびりそうになるほどビビッてました。1977年公開の超傑作オカルト映画、超絶スプラッターなホラー映画が大ヒットするとんでもなく素敵な時代でした。それにしてもサスペリア、若かったこともあるのか初めて観た時はマジで怖かったです。
僕はこの映画の虜になり、何十回も観る事になったのでした。今は再生する事すらできないですが、規制シーンをオリジナルカラーにしたレーザーディスクまで買ったなあ。というわけで、今回は思い入れをこめて書いてみよう、そうしよう。
■あらすじ アメリカ人バレリーナのスージー(ジェシカ・ハーパー)は、ドイツにあるバレエ名門校に入学する。嵐の夜に学校寮につくと、意味深な言葉を叫びながら学校から飛び出していった女生徒に遭遇。女生徒は逃げ延びたはずの同僚のアパートで惨殺される。入学後も校内で異様な事件が続き、仲良くなった女生徒のサラが突如行方をくらます。バレエ教師は「退学して出ていった」というが、サラから学校に関する不可思議な話を聞いていたスージーは、サラの友人である精神科医に連絡を取る。すると…
■恐怖が直接の対象であるすごさ 僕にとってのこの映画の素晴らしさは、観る側に不安と恐怖を「直接」感じさせるところです。気持ち悪い内臓がべちゃっと出るとか、血しぶきが飛ぶとか、そういう「気持ち悪い」じゃないんですよ。不安と恐怖と混乱、これです!たとえば、バレエ学校の寄宿舎やレッスン室に抜ける廊下の壁の色が真っ赤なんですよね。これは何かの象徴ではなく、ダイレクトに異常さを感じさせられました。
こういう認知不安をあおるシーンで
一番怖かったのは、友人サラが、正体のわからない何かに追われ、真っ暗な学校の中を逃げるシーンでした。身を隠そうとするも、廊下の明かりがついて、居てはいけない筈の誰かが扉のすぐ外にいる事が分かります。何とか別の扉から逃げるも、そこはまったくの闇が続く廊下…わずかにうつるサラの顔は緑の光に照らされ…もう、異様な世界です。必死に逃げ隠れた狭い物置部屋で落とし錠をかけるも、扉の隙間からカミソリがすうっと入ってきて、その錠を外そうと動き…実際に殺されるシーンではなく、この「殺されるかもしれない」という不安と恐怖が延々と続くんですよ!実際の殺害シーンは痛いし生々しいけど、不安でも恐怖でもないんですよね。それをこの映画は分かっているんだと思います。

人間の基本情動って、探索、怒り、恐怖、混乱、の4つなんだそうです。だから、映画で思考を介さずに直接感情に訴えるものを作ろうと思ったら、この4つのどれかに訴えるのがいちばん効果があるんでしょうね。これらの感情が何で起こるかというと、人間が出くわす問題の解決に感情が活用されるから。たとえば、自分に何かが襲ってきたら、まずそいつが自分にとってどういうものなのかを探索。次に、そいつを追い払えそうなら怒りモードになり、逆にそいつから逃げた方がよさそうなら恐怖モード。判断がつかなければ混乱。そして最後に問題が解決すると基本感情は去って安堵へとつながる、みたいな。
この映画の感情の動きって、映画→(ストーリーや意味を)思考→感情の順じゃなくて、映画からいきなり感情なんです。しかも、4つある基本感情のうちの3つが入っていて、しかも最後に解決ですから、まさに感情にダイレクトなんですよね。かなり音楽に近い作りの映画だと思います。しかも、音楽ほど聴き手に能力を問いませんし。
■「意味不明」と言われるシーンの意味 この映画(というか、アルジェント監督の映画の多くがそうですが^^;)、映画評論家やアンチな映画ファンから「意味が分からない」みたいに批判される箇所がけっこうあります。でも僕的に言うと、大体のシーンは理由がはっきりしていると感じるんですよね。もちろん、その理由が映画にとって良かったかどうかは人それぞれと思いますが、少なくとも無意味ではないです。その鍵は、上に書いた「ダイレクトな基本情動の発動」。というわけで、よく突っ込まれる謎シーンの解題をしておこうかと。
(序盤の自動ドアと水しぶきのカットの意味) 映画序盤での、空港の自動扉が開くシーンでのシリンダーと、嵐の中での水路の水しぶき、このふたつのカットアップ。これは、物語を思考(その多くは言語)を挟まず感情面で進行させることにあるのではないかと。空港の中は安全ですが、その外は嵐で、この後に起きる凄惨な事件の予兆としてあります。自動扉の開閉に使われているシリンダーは、よく見ると手でも挟まれれば手がちぎれるのではないかというほどの物々しいルックス。水路の水しぶきも、ここに落ちたら死亡確実というほどの凄い勢い。これを不安を喚起するものとして用いてるんですよね。ただし、考えるいとまもないほど速くカットをつなぐことによって、考えるのではなく感じさせるわけです。
空港の「安全」から、この後に続く凄惨な殺人へと感情のモードを「言葉ではなくダイレクトに感覚で」切り替えさせるために、このシーンがあるのではないでしょうか。(大量の蛆虫発生のシーン) 端的に言えば、不快感を与えるためだけのシーンに見えます。だから「ストーリーにまったく食い込まない無意味なシーン」みたいな反論を呼ぶのも分からなくはないです。でも、このシーン、女生徒たちがシーツ越しに影だけがマルコスに初遭遇するシーンを用意するという、ストーリー上の役割があります。それを大量の蛆虫発生にしたのは、説明(つまり記号)だけに終始せず、感情にも訴えるシーンとしたためではないでしょうか。
(なぜスージーは最後に「笑った」か) 映画のラストで、魔女の巣窟から逃れたスージーが「笑って」館を去るシーンがあります。で、彼女は何で最後に笑ったか意味が分からない、みたいな。この指摘をきいた時、この映画を何回も観たはずの僕は「え?笑ってた?」と思ったんですよね。で、見直したんですが、あれを「笑った」という言葉に要約して表現すること自体が取り違えではないかと思いました。もっと、爆発した環状と涙と安堵がないまぜになったような表情に僕には見えました。それは顔だけではなく、仕草やコンテキストもひっくるめての事だと思いますが。
だって、「アメリカ娘を殺せ」という魔女たちを覗き見て、恐怖のあまりあとずさりし、親友の惨殺死体を発見して全身がこわばり、フラフラになって館の外に出て、雨にずぶぬれになって我を忘れたような表情をして立ちすくんで、そのあとにフラフラと歩いていくシーンでの表情ですよ。そりゃ「涙や安堵がないまぜになった表情」と捉えるのが普通じゃないでしょうか。仕草や前後の状況も捉えずに、いきなりあのシーンの顔だけを捉えて「何で笑ったの?」とすること自体がおかしいんじゃないかと。
■思考を挟まずに感情を直接引き起こす、という映画手法を発明した映画! な~んて、あまりに好きなものだから擁護する文章ばかりになってしまいましたが、ダメなところも感じます。その最たるものはニセモノを使う事で、これがせっかく見事な色彩効果や言語を挟まずに直接感情を動かす表現に水を差して感じました。ぬいぐるみの犬が噛みついたり、いかにも作り物の目がのぞき込んだりというシーンがそれです(^^;)。子どもの頃、ウルトラマンが飛ぶシーンになるととつぜん人形になることに萎えたもんですが、あれと同じ。最近で言うとCGにも同じことを感じます。表現として成立するイリュージョンは素晴らしいですが、ニセモノを使っちゃダメという事でしょう。
というわけで、音楽や照明、見事なカット割りや暗示される異常性など、単なるストーリーの映像化ではなく、あらゆる音楽/映像技法を用いて思考を介さずに感情を直接引き起こし、その感情の連鎖で映画が展開していくという、今までにない映画のあり方を指示した大傑作だと思います。本当は200点の大傑作といいたいところですが、ニセモノを使うシーンが足を引っ張って僕的には160点…とんでもない高得点ですね(^^)。
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