
近藤等則さんがフリーをやっていた頃のレコード。イギリスのフリー・インプロヴィゼーションを代表するギタリストであるデレク・ベイリーさんが来日した際に作られたレコードです。仕掛け人は、間章さんという音楽評論家。この人に関しては、いずれ取りあげられたらと思います。
30~40年ぐらい前は、レコード屋に行くと、コーナー分けはポピュラー、ジャズ、クラシック、その他、みたいな感じでした。この中でジャズという音楽の特徴を挙げるとしたら、即興という所はキーワード。えらく大雑把な説明ですが(^^)、まあそんな事もあって、芸術方面での即興音楽というと、少なからずジャズの影響が強い物でした。フリーフォームになると尚更で、ロック方面のフリーなんて全然ないし、あっても聴けたものじゃなかったですが、ジャズのフリーは結構すごいのもありました。しかしデレク・ベイリーさんというのは、このジャズという匂いを全く感じさせないというか、実験音楽的な傾向にあるミュージシャン。僕のまったくの主観なんですが、ベイリーさんは即興で抽象的に演奏する事自体が目的であって、音がどうであるかとか、そんなのはどうでも良かったんじゃないかと。このレコードのライナ―ノートに、ベイリーさんのこんな言葉が書いてあります。
「あらゆる典範や記憶から身をそらした時に―それは否定という事ではありません―もっと全体的なあらゆる秩序を超えた秩序―それを人は無秩序というのかも知れない―がその人の生を照らし生そのものを提示してゆくという事にあります。」
つまり、絵画のアクションペインティングの音楽版みたいな感じでしょうか。思うがままに絵の具のしぶきをべチャッと紙の上に描くような音楽。音楽家自身が音を秩序づけるわけじゃなくて、勝手に音を出して、それが何らかの秩序とか表現とかを得ているかどうかは、聴き手とか、あるいはもっと大きな所に委ねてしまおう、という事なんでしょうね。あっていい発想というか、なくちゃいけない音楽のひとつだと思います。
ただ、これが…ここに集められた日本人ミュージシャンと全然かみ合わない。。最初の一歩だったので仕方なかったとは思うんですが、根底にあるものを深く合わせてからやるとか、そういう所に無配慮というか、そういう所をすごく軽く考えるというのがフリーのダメな所と思います。これ、日本人ミュージシャンの方も、ただセッションだと思って参加しただけなんじゃなかろうか。同じ事がベイリーさんにも言えて、日本人ミュージシャンが即興をどう考えているかとか考えた上で挑んだだろうか。いや~、とてもそうとは思えないなあ。例えば、吉沢元治さんという素晴らしいベーシストと、ベイリーさんの演奏。どちらもポリシーのある、良い演奏をしているように感じるんですが(しかし録音が素っ気ない音なので、魅力が半減して聴こえちゃっているのが残念)、とにかくかみ合わない。
まあ、それはいい方で、近藤さんとかになると…いやあ、相性どころか、この人単独でもダメ。結局、近藤さんというんはフリーがヘタなひとで、実は生トランペットでマイルスのようなジャズ・セッションをやっている時が一番カッコいい人なんじゃないかと思ってしまうわけです。考えてみたら、絵画でも音楽でも、前衛的な事をやっておきながら良い物にしようと思ったら、それは普通の絵画や音楽をやるよりもよほど難しいわけで、それをフリーでやる事自体が目的化しているようではいい音楽になるはずもないですよね。結論としては、幾らフリーと言っても、フリーに対する考え方が違う同士がやったらうまく行くはずもない…そういうセッションだったんじゃないかと。
な~んていいながら、まるで現代絵画のアクションペインティングのようなベイリーさんの音楽、僕は結構好きで、たまに聴きたくなります。ある意味で、本気で音楽に入っていったらいつかは通過しなくちゃいけない音楽のひとつだと思う。でも、これが音楽の到達点というのも違う気がする。そして、ベイリーさんのレコードを1枚…といったら、少なくとも僕にとっては、これじゃない。このレコードが作られたり再発されたりするたびに、それなりに大きい所とか有名な評論家さんが関わるからやたらと取り上げられる1枚ですが、再発している所自体がどれぐらいこの手の音楽を理解できているかというと、かなり怪しい(再発するタイトルがかなりセンス無いというか、インチキくさい^^;)。日本の前衛ジャズにとっても、ベイリーさんにとっても、大した1枚じゃないと思います。音楽を考える大切なきっかけにはなっても、愛聴盤にはならない1枚でした。
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