
僕は日本の都市部に生まれて、人生のほとんどを日本の都市部で育ったものだから、日本の都市部的な常識が身に染みてしまっています。今もそうなんでしょうが、若い頃というのは、自分の持っている常識というものが、いちばん正しい常識だと勘違いしまっていた節がありました。これは音楽に限った話ではないんですが、音楽でいうと、あまりに自分が持っている価値観と違うものに出くわすと「それは変」と判断してしまう、とか。
こういった評価の仕方って、実は、音楽そのものの出来の問題ではない可能性がありますよね。評価する価値基準の違い、物差しの違いによるものかも知れません。測る物差しを変えれば、価値は逆転するかも知れません。だいたい、音楽というもの自体が、サッカーみたいにひとつのルールの上にあるものじゃなくって、ルールすら1から作ってもいいようなものですよね。大人になっても、別の物差しがあるという事が分からないとか、あるいは分かろうとしないというのは、人間的な弱点だと思うのです。で、音楽の上で、自分は無意識のうちに、すごく偏った音楽的価値観しか持っていないんじゃないか、もっと違った、そしてそれを知ることが出来れば今までとは全く違った音楽の悦楽があるんじゃないか、と思うようになりました。もし「これはジャズじゃないからダメ」という考えの人がいたとしたら…すごくかわいそうですよね。そういう人って、自分で音楽の素晴らしさを知る道をふさいでいる気がします。自分を開きさえすれば、もっと素晴らしい事が待っているのに。。しかし、私もそんな一人であったと思うのです。そんな事を思わされた音楽が、民族音楽と呼ばれる音楽でした。民族音楽を聴く悦楽というのは、自分の知らないものを知ることが出来る点にあると思います。ここが楽しくなってくると、うまいとかヘタとか、あるいは好きとか嫌いとか、そんなものはどうでもよくなってきます。ほら、海外の田舎を旅しているときに、ボロボロの家があったとしても、その家が良く出来ているかいないかとか、あるいは好きとか嫌いとかじゃないじゃないですか。「おお!こういう所で暮らして、どんな人生を送っているのかなあ」とか、感慨しかないわけです。背景にあるものに魅せられるんでじゃないかと。僕にとって、民族音楽体験の中で特に決定的であったのが、バリ島のケチャという舞踊音楽です。
ケチャを音楽といってよいか、ちょっと微妙です。もともとは非常に呪術的要素の強い、集団でトランス状態に陥るような、強烈な祭儀の際に用いられていた舞踊であったそうです。音楽は伴奏に近い位置というか、囃しの一種みたいだったんじゃないかと想像してます。バリ島を訪れた西洋の画家がこの音楽を聴いて驚き、やや西洋音楽風に形を整えて、いわゆる音楽という形式にまとめたものが、今残っているケチャだそうで。音楽は、多人数が何チームかに分かれ、それぞれのパートを同時にコーラスします。これが入れ子細工様になっていて、ものすごいポリリズム。更に、リーダーのような人が掛け声をかけると、シーンが一気に展開して大迫力の合唱。合唱というか、叫びに近い感じですが、しかしこれが一糸乱れぬものすごい一体感。これがまだ合図で収まり、また拍のずれたコーラスが…これが何度も繰り返され、繰り返されるたびにどんどん白熱していき、ほとんどトランス状態に入っていき、その頂点ではとんでもない状態に達します。
こんな音楽、ケチャに出会うまでは聴いたことがありませんでした。歌唱される内容も、インドから流れてきた文化の影響を受け、インドのラーマヤナの物語が進んでいきます。こういうわけで、詞ひとつとっても、作詞家が作って売っているような歌謡曲と比較するのが失礼なほど、深さというものが違いすぎます。
なんという強烈な音楽!私は、無人島に1枚だけCDを持って行っても良いと言われたら、このCDを持っていく気がします。アマゾンで調べたところ…おお、今なら中古が300円ぐらいで買えるみたいです!まったく、金銭的な価値っていうのは、当てになりませんね。これは、人類の作り出した最高の音楽のひとつだと、私は思っています。
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