
さて、前の記事で書いた、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのデビューアルバムです。しかしこのアルバム、美術家であるアンディー・ウォーホールのアート作品絡みで世に出たものらしく、彼のショーでモデルをしたアラン・ドロンの奥さんをヴォーカルにするように強いられたりとか、音楽の事を美術的な視点でしか理解できないディレクションを強いられたりとか、そういう企画ものというハンデを抱えながら制作されたという、こと音楽に関しては不幸なアルバムに思えます。しかし、バンド側が、ウォーホールという現代アートの巨匠のネームバリューを利用したという事も事実で、単に音楽だけに留まらせることなく、トータルな芸術(といってもポップアートなので、芸術といってもニュアンスが若干異なるかも)の一側面として音楽を活用するというのも、それはそれで良い事だと思います。が、レコードになっちゃうと、やっぱり音楽として聴いてしまいますよねえ。
ええと、何が言いたいのかというと、このレコードを聴いていると、そういう虚の部分と実の部分がどちらも聞こえてきてしまう、という事なのです。で、それが曲によって露骨に色分けされている。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドというバンド名は、SM雑誌から取られたそうです。音楽は、アメリカン・オールディーズみたいな曲を書きながらビート詩人のような詩を書く
ルー・リードが曲を書き、現代音楽の勉強をしていた筋金入りの音楽家である
ジョン・ケイルがそれをアレンジしてアヴァンギャルド・ポップを作るという形で作られたように聞こえる。で、彼らにしか出来そうにない音楽が生まれた瞬間というのは、すべてこの構図の中にある。このアルバムでいうと、「ヘロイン」「ヨーロピアン・サン」「黒い天使の死の歌」「毛皮のヴィーナス」の4曲。このアルバムでは、この4曲だけが、バンドの本質を捉えていたのではないかと。「ヘロイン」なんかは、ヴィオラをドローンとして使い、曲はコーラスごとにアッチェルしては元テンポに戻すという構造。これは格好いい。
しかし残りの曲は、ディレクターの意向に引っ張られていたり、女優のバックバンドに徹していたり。…それでも、バンドもタダでは終わりません。いかに古き良き50’sみたいな爽やかな冒頭曲「サンデー・モーニング」も、歌も最後にはリヴァーブまみれにされて遥か彼方に消えていきます。ディレクターや女優の機嫌を損ねないようにしながら、見えないように自分たちの意図を仕込んだと考えるのが自然でしょう。
こういう構図に気づけるかどうかで、このアルバムの評価は大きく変わってくるんじゃないかと思います。僕は、例の4曲ばかりを聴いていました。それが分かり易い聴き方だと思いますが、裏側から音楽を聴けるようになってきたら、他の曲も楽しめるようになると思います。他の曲を字面通りに読んでいるうちは、ヴェルヴェット地の底(アンダーグラウンド)に隠された、本当の意味は分かりません。…こういう屈折した読み時を楽しむ人なんかには、間違いなくおススメできるアルバムです(^^)。
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