
クラシックという言葉は、狭義には古典派とロマン派の音楽だけを指す言葉だそうで、それ以降の現代音楽や、あるいはそれ以前のバッハとかのバロック音楽なんかはクラシックと呼ばないそうです。でも、もっと広く音楽全般をカテゴライズするときなんかには、こういうものもひっくるめてクラシックと呼んでいると思います。で、音楽的特徴から狭義の意味での「クラシック」を表現すると、これは長短両調の機能和声音楽、という事になるんじゃないかと。機能和声というものの特徴は、それぞれの和音が全体の中で、それぞれに与えられた役割を果たしているという事。このシステムの中では、メインになる主調という響きがあって、他の和音はすべてこの主張に対しての関係役割という視点から機能されている。ここに機能和声音楽の長所と弱点がある。長所は、すべての和音が意味役割化されているから、響きそれぞれに有機的なつながりが出来て、音楽を全体として劇的にすることが可能になる。弱点は、和音の形が最初から決定されているから、主調の響きとか、それぞれの響きそれ自体が、どの曲も似たり寄ったりになる。だから、典型的なクラシックは、今の耳で聞くと、ベートヴェンだろうがモーツアルトだろうが響き自体は退屈で、しかし機能和声特有の和声進行のグッとくる瞬間はこれでないと味わえない、という諸刃の剣状態になる。
これが、近代になると、様相が変わってきます。たとえば、ロマン派音楽が終わる直前にあったロマン派音楽。そこには、今までの典型的な響きではない和声への試みがあったり、劇的構造に対する挑戦があったりします。独特の色彩感が出てくる。そうでありながら、機能和声音楽の、あの独特な和声進行の妙が残されている。…素晴らしいんですよ、これが。多分、こういう理由で、僕は近代音楽が好きなんじゃないかと思います。
リヒャルト・シュトラウスという作曲家も、ロマン派崩壊寸前という時代を生きた作曲家です。とはいっても、その作品の多くは、やっぱり典型的なロマン派音楽なんですが、「メタモルフォーゼン(変容)」という曲は、何とも言えない独特な響き、独特な構造を持った音楽になっています。最初に聴いた時、なんて素晴らしいサウンドなんだ、なんて素晴らしい音楽なんだと惹きつけられてしまいました。弦楽なんですが、「23の独奏弦楽器のための」という副題の通り、通常のオケ編成ではありません。
音楽は、ベートーヴェンの葬送行進曲のテーマ(だったよな?スミマセン、間違ってるかも)が何度も変奏されていきます。これが機能和声でありながら、劇的に進行して頂点に上り詰めてドッカ~ンときて最初に戻って…というのではなく、無限旋律的に漂います。この、どれが主調であったのか分からなくなるような、しかし和声の連結は実に見事に機能しているような、白昼夢の中を彷徨うような浮いた感じが、何とも言えない不思議な感覚に陥ります。これが本当に素晴らしい。世紀末ロマン派音楽未体験の方は、ぜひ一度味わってみてください!
で、以下は余談。この記事を書いているとき、このCDを久しぶりに引っ張り出して、もうひとつ入っていた「死と浄化」も聴いたんですが…おお、いい曲じゃないか!昔聴いた時は、「なんだ、また叙情性の押し売りロマン派音楽かよ」なんて思ったんですが(^^;ゞ、いやいやどうしてそれがいい。映画版スタートレックの音楽がこの曲のパクリである事も分かりました。。
あ、そうそう、もうひとつ。クラシックでシュトラウスというと、もうひとりヨハン・シュトラウスという人がいますので、気をつけてください。そちらの人は、優雅なワルツなんか書いていたりして、全くの別人です(゚ω゚*)
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